(どこか……ずれてる)
 そう思った夏樹だが、すぐに鼻で笑い、
「どこかじゃねえ、全部だ」
 と、小さく言葉をこぼした。
「だめなの……?」
 その独り言に反応し、葉月が顔を覗きこむ。
「わかった。明日、一緒に行ってみよう」
「だから夏っちゃん大好き!」
 ぶつかるように抱きついてきた葉月を受け止め、夏樹はきつく抱き締め返した。肩口に感じる熱さは、零れる大粒の涙。
 懸命に明るさを演じてはいたが、それは無理に無理を重ねた結果。
「泣くなよ、ほら。せっかく乾いたシャツ、また濡らすつもりか」
「ごめんね夏っちゃん、巻きこんじゃってごめんね……」
「わかってるから、もう泣くな。お前はなんにも悪くないんだから……。疲れただろ、寝た方がいい。今日はずっと側にいるからな」
「じゃあ、一緒に寝ようよ。ちっちゃい頃はいっつも、おんなじ布団でお昼寝したよ」
「……あのベッドに二人は狭いだろ。子どもじゃないんだから」
 艶やかな髪を撫でることで気持ちを抑え、葉月をベッドに抱え運んだ夏樹。自身は硬いフローリングの床に寝転んだ。
 得体の知れぬ、髑髏館という店に行くことを夏樹が了承したのは、葉月を落ち着ける方便としての意味合いが大きかった。他にいい手段があるわけでなし、ひとまず眠って翌朝、再び説得を試みるのも悪くない。
 それが夏樹の、理性が導き出した冷静な判断。だが同時に、頼る場所はその髑髏館しかないと、直感はざわめいていた。
 言葉で説明はしがたいのだが、訳のわからないうちに巻きこまれた災禍の渦を抜けるためには、髑髏館に行くべきだと感じたのだ。
 なぜかはわからない。ただなんとなく、それこそが自分の採るべき道だと思ってしまったのだから……。
「ずれるなら、とことんまでずれればいいさ。もしかしたら三百六十度回って、元の位置に戻るかもしれないしな……」
 信じてもいない独り言は、カーテンの隙間から射しこんだ薄暗い光に、呑みこまれたような気がした。

 翌朝、といっても時計が正午を知らせようとした頃、ようやく夏樹の瞼は開いた。隣にはいつの間にか、タオルケットをかぶった葉月が、すがり付くようにして眠っていた。
 ふうっ、と声のような息のような音を出し、静かに立ち上がったつもりの夏樹であったが、葉月は敏感に反応した。
「やっ、行っちゃやだ……!」
 寝起きのくぐもった声が、葉月の薄い唇から漏れる。
「新聞を取ってくるだけだよ。どこにも行くわけがないだろ」
 夏樹が確認したかったのは、あの首の胴体が見つかったという、いわゆるバラバラ殺人事件の記事が掲載されているかどうか。
 それが事件として扱われていれば、髑髏館とかいう怪しげな店に出向くことは、危険の方が先に立つ。中止するしかない。
 幸いというべきか、それらしい話題はなかった。念のため、テレビ欄にあるワイドショーの見出しにも目を通したが、破局や不倫といった活字しか踊っていない。
「出てた?」
 葉月も同じ懸念を抱いていたのか、横から心配そうに紙面を覗きこんだ。
「それらしいのはないな」
 言いながら夏樹は、テレビのリモコンを押した。いいタイミングでニュースが始まったが、そこでも首無しの死体が発見されたなどという話はなかった。
「行くなら早い方がいいな。嫌なことはさっさと済ませて、どっかで食事でもして帰ろう」
 腐敗が進まないよう、幾重にもビニールに包んで冷蔵庫に入れていた首を取り出した夏樹は、努めて明るい声で言った。
「でもこれ、犬に見えるのかなあ……」
「なっ……。お前がそう言ったんじゃないか」
「昨日は興奮してたから、そう見えただけかもしれない!」
 葉月は袋を乱暴に奪い取り、ビニールの結び目をほどこうとした。だが、震える指がもどかしかったのだろう、ヒステリーを起こしたように爪で袋を引き裂いてしまった。
 一晩経ったが葉月の神経はまだ、平静とは遠かった。再度、警察に行くように言い含めるつもりだったが、断念せざるをえまい。
 冷たい顔を素手で持ち上げ、凝視したまま微動だにしない葉月。夏樹は小さく首を左右に振って、視線をなにもない床に落とした。
「夏っちゃん夏っちゃん、昨日よりずっと、これ犬っぽいよ」
 ゆっくりと生首を観察していた葉月から出た言葉に、偽りはなかった。それを見た夏樹も思わず、
「犬だよな、これは絶対」
 と、同意を強く表した。そして続けて、こうも言った。
「けど、まだ完璧じゃない。葉月、捨ててもいい包丁かナイフ、あるか?」
「どれでもいいよ。でも、なにするの?」
「耳を削いで、眉を剃るだけだよ。世の中には、まったく毛のない猫もいるし、ロン毛みたいな犬もいる。けど、犬に人間の耳がついてたら変だし、眉毛もおかしいからな」
 これならごまかせそうだ、という希望的観測が夏樹を積極的にさせた。解剖の経験も手伝い、さすがの手際で両耳を切り落とす。
「これでよしと。俺は耳を刻んでトイレに流すから、剃刀で眉を剃ってくれ」
「うん。ねえ、夏っちゃん。なんだかあたしたち、ほんとに悪いことした共犯みたいだね。あたしがボニーで、夏っちゃんがクライド!」
「そんな格好いいもんか? っと、もう一時になるぞ、ほら急いだ急いだ」
 もう、ノリが悪いなあ、という声が、トイレに流した水の音と重なって消えた。
 
 情報誌によると髑髏館は、歓楽街のど真ん中にあるらしい。二人は私鉄に乗って最寄駅である梅畑で降りた。
 できれば人の多い電車は避けたかったが、これが一番手っ取り早い。一秒でもいい、この降って湧いた災難から、早く抜け出したいという思いが勝った形となった。
 首は大きなボストンバッグに入れて、夏樹が持っている。腐ってはいないが、万が一にも臭いを周囲に気付かれないよう、燻した紅茶の葉も大量に詰めた。
「ええと、この辺りだと思うんだけど」
 東通り商店街のアーケードに入り、忙しく首を左右に動かしながら夏樹は呟いた。
 飲食店やゲームセンター、さらにパチンコ店などが目立つのは、やはりここが歓楽街であるためだろう。
「夏っちゃん、もしかしてあれじゃない」
 葉月が指し示したのは、ド派手なショッキングピンクに塗り固められた建物だった。
「マジかよ……」
 ゲームセンターとパーラーに挟まれたそれは、良くも悪くもこの街らしいたたずまいなのだろう。
「看板見てよ。『髑髏館』って出てるでしょ」
 名前のイメージからして、もっとこう、こじんまりした占い屋のような店を想像していた夏樹であった。
 それがよもや、神秘的という言葉を蹴り飛ばした、こんなすごい建物だとは。別の意味で胡散臭さを感じてしまう。
「一階は関係ないゲームセンターで、二階と三階が髑髏館みたいよ。どうする?」
「入るしかないだろう、とりあえず」
 二人はエスカレーターに乗って、髑髏館に足を踏み入れた。
 店の内部も外観と同様、きらびやかなものであった。色取り取りの照明が乱舞し、それに映し出される動物たちの骨格。
 一応値札らしき物がついているが、何十万、物によっては何百万もする。
「こんな高いんだ。けど、お客さんいないね」
「そうだな。しかしこれなら、情報誌に載ってもおかしくない。宣伝次第じゃあ、目新しいデートスポットになりそうだし。博物館みたいに入場料取れば、結構儲かるかもな」
「でも、お客さんだけじゃなくて、店員さんもいないみたいだけど」
 言われてみれば、無意味なまでに広いこのフロアには、他に人のいる気配がない。それどころか、レジさえ見当たらなかった。
 どちらからともなく顔を見合わせた二人であったが次の瞬間、真後ろから声が応じた。
「お呼びですか」
 夏樹と葉月は、
「うあっ!」
「きゃっ!」
 と、同時に叫び、同じ速度で振り向いた。
 二人の視界の真ん中にたたずんでいたのは、フード付きの白いローブに身を包んだ、おそらくは男性であった。その肩には、烏のような黒い鳥が一羽。
「これは失礼しました。驚かせるつもりはなかったのですが」
 高くも低くもない声を響かせる、中性的な顔立ちに柔らかい笑みを湛えたその男性は、若いと言われれば若かったし、年老いていると言われればそう見えた。
 髪も瞳も黒かったが、日本人というより、西洋民族の血が濃さそうにも感じられた。
「私の名はバーブチカ。この店を任されている者です。肩にいるのが――」
「カリツォー!」
 黒い鳥は甲高い声で、自分の名前らしきものを叫んだ。不気味なことにその鳥には、足が三本生えていた。
 気配の欠片も感じさせずに現れた、バーブチカという男性の発する、オーラとでもいうべき雰囲気に圧倒された二人。
 夏樹の口はからからに乾き、無意識に握った手の中では汗が滲んだ。
「あ、あの、ここで骨を買い取ってくれるって聞いたんですけど」
 先に口を利く余裕を取り戻したのは葉月で、いきなり本題に入った。夏樹としては、店の説明など差し障りない会話の端から、様子を探りたいところであったのだが、口にも顔にもそんな感情は出さなかった。
 かすかに舌を打ったのは、ただ立ち尽くしてしまった、自分の不甲斐なさが腹立たしかったから。
「ほう、買い取りのお客様でしたか。それで、なんの骨をお持ちです?」
「犬です。家で飼っていた犬が、事故で死んでしまって」
 目で葉月を制し、夏樹が会話を受け継いだ。ゆっくりとファスナーを開け、ビニールの袋を取り出し、バーブチカという店員に渡す。
「頭だけですし、まだ骨になってないんですけど」
「それはこちらの仕事ですから構いません。ほう、大型犬ですか。それにしてもこれは―」
「ニンゲンミタイダ!」
 カリツォーという不気味な鳥の叫びは、広い部屋中に轟き渡った。
「これこれ、滅多なことを言うものではありません。いや、これは非常におもしろいですね。喜んで買わせていただきます」
 自然に葉月を抱き寄せていた夏樹は、溜息だけでなく涙までこぼしそうになった。たった半日ほどのことであるのに、十年来の悩みから解き放たれる気がした。
「それで値段の方ですが、六百万円でいかがでしょう」
「六百万!?」
 夏樹と葉月は同じ驚きの言葉を叫んだ。
「不服でしょうか?」
「そうじゃなくて、そんな高価なものなんですか、これが? いや、もちろんこういう物にも相場があるんでしょうが」
「当店は九百万円で売るつもりですし、当然売れると考えています。気持ちにお変わりなければ、手続きに入りたいのですが。いえ、ごく簡単なことです。免許証などで名前と住所が確認できれば、母音で結構ですので」
「身分証明書……ですか」
「はい、コピーを取らせてください。そんなに深い意味はないのですが、不景気のせいなんでしょうね、ここのところ税務署がうるさくて」
「ゼイムショコワイ、コワイ、コワイーッ」
「とまあ、カリツォーが覚えてしまうほどでして」
 ここで拒否すれば、余計に怪しまれるだけである。夏樹は学生証を渡し、書類に必要事項を記入した。
 あたしが書くよ、と葉月も執拗にごねたが、それでは意味をなさない。夏樹は葉月を守るために、ここまできたのだから。
「ねえ夏っちゃん、上の階にはなにがあると思う。あそこの階段の前、立ち入り禁止って紙が張ってあるけど」
 コピーを取るためにバーブチカの姿が消えると、葉月が小声で尋ねてきた。
「さあ、事務所なのかもな」
「ちょっと行ってみたいな。なんだかここ、あたし気に入っちゃった」
 早々に立ち去りたかった夏樹の心と正反対、意外な言葉を葉月は言った。
「なに言ってんだよ、お前」
「だってなんだか、惹かれない。別の世界に紛れこんだみたいでさあ。ちょっとお願いしてみよっかなあ」
「三階は特別室でして、一般の方は遠慮してもらっているのです」
 いつの間に戻ってきたのか、またも背後で突然、バーブチカの声。足音や呼吸音、いわゆる気配を一つも感じさせずに、この人物は二人のすぐ傍らにいた。
「ほ、ほら葉月、無理なこと言うんじゃない。迷惑だから」
 気持ちの揺れが声に伝わり、夏樹からは震える言葉しか出なかった。
「ミセテアゲテイイヨネ?」
 またもカリツォーが、人間の会話を理解しているように喋った。烏の類は頭がよく、九官鳥のように言葉を覚えるとはいうが……。
「ええ、構いませんよ。私は彼と、代金の支払い方法を決めておきますから」
 許しを貰った鳥は葉月の肩に飛び移り、葉月は嬉しさを、跳ねるような歩みで表した。
「すいません。わがままなことを」
「いえいえ。ところでお二人は、兄妹ですか?」
「え……!? いや、違いますけど」
「失礼しました。なんとなくですが、似た雰囲気を感じたもので」
「育った場所が近いですし、幼なじみではありますけど。そういえば一応は、親戚筋であるらしいんですが」
「……なるほど。それはさて置き、代金ですがどうしましょう? 現金がよろしいですか、それとも口座に振り込みましょうか」
「そうですね。……半分ずつというのは?」
「構いません。では、確認を」
 差し出されたのは厚い封筒だった。促されるままに中を見ると、帯紙の切られていない新札の束が三つ。まるで、夏樹の答えを知っていたかのように、きっちりと三百万円が用意されていたのだ。
 ぱらぱらとめくってはみたが、一々数えるようなことはしなかった。三百枚あろうが、ニ百九十九、もしくはそれ以下であろうが、
どうでもいいこと。
 夏樹の背には、冷たい汗が玉になって浮かんでいた。重荷を買い取ってくれた恩人ではあるが、冷静に見れば見るほど眼前のこの人物は、あまりにも現実から乖離していた。
 一億人以上も住むこの国には、たしかに中性的な顔の人もいるだろうし、年齢不詳の人も、不思議な雰囲気の人もいる。
 だが、その特異な要素が幾つも幾つも、一人の人間に重なるとそれは、人間を超えた存在なのではなかろうか……。
 一刻も早く、この場所から逃げだしたい夏樹。この男性と二人でいることは、完全な苦痛となっていた。
 向こうから会話でも試みてくれれば、間を持たすことも可能なのだろうが、バーブチカもただ、無言で立ち尽くすだけだった。
(なにやってんだ葉月は!)
 何度も階段に目をやり、幾度も髪を掻き揚げながら、夏樹は待つしかなかった。