『髑髏館』


暖色を基調としたこの部屋は、若い女性の生活が漂う部屋だった。タータンチェックのカーテン、デフォルメされた猫がプリントされたクッション、水玉柄の枕等々。
 部屋の主は不在であったが、MDコンポからは延々と英語の歌が流れていた。それも騒々しいロックではなく、一昔前のポップス。『僕が君にあげられるのは、歌だけなんだよ。それが僕のできる、全部なんだよ』
 日本語に訳せば、そんな意味になる。
 誰もいない部屋に帰る寂しさを、多少なりとも紛らわすためなのだろうか。
 だが、そんな瑣末なことを気にするより前に、極めてこの部屋に相応しくないながら、テーブルの上に堂々と鎮座している物について言及すべきだろう。
 その物体は、独り暮しをしている女性の部屋だから似つかわしくないというのではなく、存在を許される場所が限られている。
 寺や教会、それも建物の内部ではなく、墓地に眠り在ってこそしかるべき、人間の頭蓋骨なのだから。もちろん模造品ではなく、正真正銘の人骨である。
「ごめんねー、遅くなっちゃって。病院すっごく混んでたの。これでもあたし、急いで帰ってきたんだから怒らないでよね」
 扉が開くなり、明るい声と雰囲気が室内に充満した。まるで部屋に、大切な人を待たせていたかのように彼女は、一日の出来事を髑髏に向けて語り出す。
 その喋り方はとても大切な人、恋人などに向けられるそれであった。
 そう、この髑髏はほんの三ヶ月前までは、立花夏樹という、この女性、風岡葉月にとって、非常に近しい存在だったのだ。
「あーあ、早く夜にならないかなあ。あたし早く、夏っちゃんとお話したいよ。今日はとっても、嬉しい報告があるんだ」
 葉月の言葉に反応し、わずかに髑髏が動いたように見えた。眼球を失った二つの空洞の奥に、命の残り火が煌いたように見えた……。


 窓を叩く雨、スピーカーから流れるエルトン・ジョン、そしてキーボードを打つ音。
 接点のない三つの音が即興で奏でる、独特の三重奏に乗ったのか、夏樹は思いのほか好調に課題を進めることができていた。
 来週の水曜日に、ゼミでの研究発表があるため、せっかくの土曜の夜をレジュメ作りに奪われていたのだ。
 しかし、調和しかけた三種の旋律は、四番目の音によって、クライマックス前にその演奏を中断させられた。
 突如響いた電話の呼び出し音に、不意を突かれた夏樹の背筋はかすかに跳ね、次いで舌打ちが続いた。
「何時だと思ってんだよ……」
 すでに夜中の三時を回っているのというに、真昼間と同様、猛々しく鳴ればいいと思っている機械をうとましく感じながらも、受話器を取らないわけにはいかない。
「……はい、立花ですけど」
 隠れようともしない不快。その低い声に気圧されたのか、向こうからの返答はなかった。
 間違い電話なのか、はたまた最初から悪戯のつもりの無言電話なのか、聞こえるのは雨がガラスを打つような音だけ。
「もしもし……」
 最初より、さらに棘を含んだ声で、もう一度返答を迫ったが無駄のようである。
 夏樹が胸の怒りを吐き出すように、大きく息をついて受話器を耳から離そうとした半瞬前、聞き覚えのある声が届いた。
「夏っちゃん……あたし」
「葉月?」
 夏樹は電話が、幼なじみの葉月からであるとすぐに気付いた。夏樹のことを、いまだに「夏っちゃん」と呼ぶのは、世界中でたった一人、葉月しかいないはず。
――だって夏っちゃんは夏っちゃんだもん
 女みたいな呼び方はやめてくれ、と十代に入った夏樹がいくら頼んでも、葉月だけはそう言って、聞き入れてくれなかったのだ。
「ごめんね、こんな夜遅くに。起きてた?」
「ああ、だいじょうぶだ。けど、驚いたな。お前から連絡してくるなんてさあ」
「うん。ごめんね」
「謝るなって。それにしても、久しぶりだよな。一年、いや、もっとかなあ」
 夏樹と葉月は、遠い親戚という関係上、オムツの頃からの知り合いであり、葉月が女子高に入るまでは、同じ学校に通っていた。
 夏樹が医学部で葉月は法学部と、学部こそ違ったが選んだ大学も同じで、キャンパスがある僧ヶ崎市内に地方から移り住んでいた。
「もう、そんなになるのかなあ」
「話したいとは思ってたんだけど、俺も忙しくてな。で、お前いま、どっからかけてるんだ? 雨の音がそんなにひどいってことは、家からじゃないよな」
「アパートの近くの、公衆電話。あたしの家、今も電話ないから」
「電話、嫌いだもんなあ、お前。それで……なにがあった? いいから話してみろ」
「……あのね、とっても犬に似てるの。とってもとっても、似てるの!」
 葉月の声は、小さな子どもが宝物を見つけたときのように、はしゃいで聞こえた。意味はわからなかったが、言葉の裏に隠れた危うさだけは充分に伝わった。
「だから夏っちゃん、早く……来て」
「わかった。すぐに行くから、家に戻ってろ。すぐに行くからな」
 受話器を置くなり夏樹は、半袖のTシャツとジーパンに着替えつつ、バイクの鍵を握って駆け出した。
 あの臆病な葉月が自分から電話してくるなんて、尋常なことではなかったから。
 葉月を知っている人間の中で、彼女を臆病だと言うのは夏樹だけである。おそらく他の誰に訊いても、明るい女の子とか社交的な女性とか、そんなポジティブな人物評しか返ってくまい。
――プライベートを大切にしたいの
 部屋に電話を引かない理由を葉月は、誰かにそう説明していた。だが、本当の理由はそんなことではなかった。
――もし電話したとき、相手の人がお風呂に入ってたり、楽しいテレビ見てたら、邪魔になるよね。なんで今かけてくるんだよ、みたいな気持ちになるよね。あたし、それが怖いの。それが原因で嫌われたりしないかなって、考えちゃうの……
 その知り合いが帰った後、葉月は泣きそうな瞳で夏樹にそう呟いた。これが等身大の、葉月という女性の姿。
 葉月は夏樹と二人でいるときだけ、繊細で弱々しいだけの、本来の彼女に戻る。頼られることが多い葉月は、夏樹に甘え頼り切ることでバランスを取っているのかもしれない。
 夏樹が聞いた話では、葉月は養女であるらしかった。大学にまで通わせてもらっているのだから、邪険に育てられたわけではない。
 だが、心の奥底に潜む、異常なほど臆病な性格の原因は、幼少期に必要な愛情の欠如にあると、夏樹は確信していた。
 誰よりも、などと思い上がってはないが、夏樹は葉月のことを知っていた。葉月が自分を頼るのは、彼女の養父母よりも夏樹の方が、共有した時間が長いからだと考えていた。
 恋愛感情がなかったとは思わない。男と女の関係になる機会も幾つかあったが、踏み切り板手前の助走路で、自然に失速することを繰り返した。
 そうこうしている内に夏樹には、彼女らしい存在ができ、それが原因の一つとなったのか、二人は疎遠になっていた。
 けれど夏樹は、誰よりも葉月のことを大切に思っていた。おそらく、葉月もそうなのだろう。採るべき手段を見失ったらしい彼女が、真っ先に連絡した相手なのだから。
 ヘルメットも忘れて、夏樹はバイクに飛び乗ったが、こんな時に限って素直にエンジンがかかってくれない。
「くそがっ!」
 友人から中古のバイクを半年前、ただ同然で貰い受けて、たしか二度しか乗ってない。
「急いでんだから動け馬鹿!」
 タンクを蹴り上げたことで、偶然目を覚ましてくれたエンジンを限界まで吹かし、夏樹は雨の夜に飛び出した。


 駅二つ分の距離を約七分で走り抜き、夏樹は葉月の住むマンションに到着した。
 葉月はアパートだと言うが、鉄筋の頑丈かつ高級そうな造りは、家賃を重視して決めた夏樹のアパートとは別物であった。
 髪の雨粒を両の手のひらで無造作に拭い弾き、夏樹は階段を二段抜かしで駆け上がる。
 医学部の専門課程が始まる前、大学生活が二年過ぎるまでは、週に一度は訪れた場所である。迷うことなく夏海の部屋の前に立った。
 チャイムを押し、指先でかぐるようにドアを叩く。一秒の間も開けず、静かにドアは開いた。葉月はドアのすぐ側で、夏樹が来るのをじっと待っていたのだ。
「入って」
 うなずきで応え、室内に足を踏み入れた夏樹の鼻を、どことなく知った臭いが刺激したが、紅茶の香りがそれを隠した。
「このタオルで身体拭いたら、そこのクッションに座って」
「ああ」
「はい、夏っちゃんの好きな、レモンじゃなくてミルクティー。お砂糖は一つだよね」
「覚えてるもんだな、長い間会ってなくても」
「そうだね」
 熱い紅茶を一口啜り、夏樹は大きく息を吐いた。
「おいしい?」
「うん、うまいよ。暖まるし」
「よかった」
 葉月の微笑みに夏樹はいつも、儚げな印象を受ける。特に今日、その感を強めたのは、瞳が笑いを拒絶しているから。
 なにかを、おそらく強い悲しみをじっと耐えている大きな瞳から、涙がこぼれるのを覚悟し、夏樹は本題に入ることにした。
「……それで、どうしたんだ? 電話かけるのが大嫌いなお前が自分から、それも夜中に電話してくるなんて」
「ごめん、迷惑だったね……」
「そうじゃない。お前が呼ぶなら俺はいつだって、どこにだって行くさ。どんなことがあっても、俺はお前の味方だ。だから……話してくれ。一体なにがあったんだ?」
 正座したまま、ティーカップだけを見つめていた葉月が、おもむろに立ち上がった。
 座った夏樹の背中側、ユニットバスのある扉を開いた葉月は、なにかを抱えるようにして出てきた。赤いバスタオルに包まれたそれは、バスケットボールほどはあるだろうか。
 葉月がそれを、広げた新聞紙の上に置くと夏樹の鼻を、部屋に入ったと同時に感じた臭気がついた。
「なんだよ、これ?」
 正座しなおした葉月は、握った手を膝の上に置き唇を噛む。それ以上は、動きたくないと言うように。仕方なく夏樹が、バスタオルを外そうと手を伸ばしかけたが、
――とっても犬に似てるの
 という、先ほどの電話で発せられた、葉月の声が頭蓋の中で数度反響し、指は宙ぶらりんで止まった。
 静寂の底に陥ってしまったように、二人の間に音がなくなった。呼吸さえも、見えないなにかに掻き消されていた。
「ほんとに、似てるんだよ、犬に」
 無音の世界を破った、葉月の途切れ途切れの声は、どことない官能を夏樹に感じさせた。
「だから、驚かないでね……」
 はがされた赤く厚い布。その中から転げ現れたのは、犬の、いや、血にまみれた人間の生首だった。
「ぐっ……!」
 声にならない声と共に、夏樹は息を吐きながら飲みこんだ。どこかで感じた異臭の正体は、血の臭いだったのだ。
 世の中には慣れ親しむという言葉がある。医学生である夏樹には、採血の練習などもあり、たしかに血液は慣れたものであった。だが、親しむものでは断じてない。
 一般人のように血を見ただけで嘔吐するようなことはないが、生首付きとなると、目をそむけても文句は言われまい。
「葉月……」
 やっとそれだけ、言葉となって宙に漂った。
「帰りにね、バイクにぶつかったの」
「轢いちまったのか……」
「違うよ。この犬みたいな頭が落ちてたの」
 夏樹の思考は、混乱の極みを目指して駆け上がるようだった。怒鳴りつけたい衝動を、必死ながらも堪えられたのは、やはり目の前の女性が葉月に他ならないから。
「身体は、なかったんだな?」
「うん、頭だけだったの」
「なら、どうしてすぐに警察に行かなかったんだよ」
「だから犬だと思ったの。可哀相だから埋めてあげようって思ったの。けど、家に帰ってよーく見たら、人間だった。おかしいよね」
 言葉の後半が明るさを伴って聞こえた。白い頬が、かすかに緩んだかに見えた。そして葉月は声を漏らし、泣くように啜り笑った。
 しかし夏樹には、とてもではないが一緒に笑ってやる気分も余裕もない。彼を恐慌から救っていたのは、葉月が壊れないように守らなければという、義務のような意識一本だけだった。
 葉月の精神は、わずかずつだが急速に、確実に変調をきたし始めている。息苦しく閉塞したこの状況を、とにかくなんとか切り崩さなければならない。
「葉月、警察に行こう。それしかないよ」
「だめ。絶対あたしが犯人だって思われるわ」
「事情を話せば、警察だってわかってくれるさ。俺も一緒に行くから、なっ」
「警察って、夏っちゃんが思ってるほど生易しい場所じゃないの。自白を取るためなら、ほんとになんだってするのよ。頭まで筋肉な人達が権力持って、思い上がってるだけのひどい所なんだから!」
 反権力志向の葉月は、痛烈に警察組織を批判した。彼女が法学部を選択した理由が、社会的弱者の手助けをする目的だったことを夏樹は思い出した。
 しかし、夏樹はその警察批判に首肯はしない。権力が集中すれば多かれ少なかれ、澱みが出てくるのは当然である。不祥事が続いているとはいえ、諸外国に比べたら、日本の警察のなんと優秀なことか。
 所詮、人が人である限り、清すぎる水もまた住みにくいと考える夏樹は、結構な現実主義者であった。
 その現実主義者の視点から見て、葉月の立場は非常に危うい。千万の言葉を尽くしても、警察が素直に納得してくれるとは思えない。血のこびり付いたバスタオルがこの部屋にあるのも、強力な物証になるだろう。
(仮に起訴されても、初犯で前途がある若者であるし、執行猶予は堅いな。いや、精神鑑定に持ちこめば無罪の可能性だって……)
「警察には行かない。絶対に、行かないんだからっ!」
 夏樹の心でなされていた、猛スピードでの計算を見破ったように、葉月は大声で叫びを上げた。
「じゃあどうすんだよっ!」
 反射的に夏樹も、溜まりに溜まった怒りをぶちまけた。視線の届かぬ場所に追いやっていた生首を見据え、震える声を隠すように声を荒げた。
「いいか葉月。いくらお前には犬に見えるからって、これは人間の頭なんだ。これは犬じゃなくて……でも、犬に見えるよな……」
 まじまじと見つめた首は、本物の犬のようであった。どこがどうと訊かれれば答えに詰まるが、『犬の手帳』なんて雑誌に、素知らぬ顔で載っていたら気付くかどうか。
 ゴールデンレトリバーやセントバーナードといった、大型犬を思い出させる人の顔面。
 どんな骨格をすればこんな肉付きになるのだろうかと、夏樹はちょっとだけ学術的興味をそそられた。
「似てるよね、やっぱり。ほんとに犬だったら、悪くても器物損壊罪ですんだのにねー」
 法学部生らしい呟きではあろうが、不謹慎なこと極まりない。
「お前も法学部に通ってるんだから、やっぱり法を遵守して警察に行こう、なっ。他に方法があるんならともかく、俺にはそれ――」
「あるよ、方法」
 夏樹の言葉を遮り、待ってましたとばかりに葉月は立ち上がった。
「え……? ちょっと待てお前。まさかこの頭を、隠したり捨てたりする気じゃないだろうな。それはだめだぞ、絶対に」
「そんなことしないよ。ほら夏っちゃん、これ見てよこれ。夏っちゃん待ってる間に見つけたんだ。あたしたちを助けてくれる、お・み・せっ!」
 いつの間にか葉月の中では、このふざけた事態は二人で引き起こした問題となっているようであった。
「店? 店がなんの役に立つ」
「いいからいいから」
 葉月が両手で差し出したのは、二人の住んでいる僧ヶ崎市が隔月で発行している情報誌であった。観光スポットや流行の店、さらに緊急指定の病院まで、手広く紹介されている。
「ここね、この髑髏館ってお店。ほら『貴方がお持ちの骨、売りませんか! 頭蓋骨から指の骨まで、なんでも買い取ります!』だって。これってすっごい、ラッキーだよね」
 夏樹は言葉が継げなかった。
 そんな馬鹿げた広告あるわけがない、と頭では常識が叫んでいるのだが、目から入る活字は、たしかにそう日本語を綴っていた。
 情報誌の表紙と裏表紙を確認したが、一九九九年の十月号、つまり八月に配布された物に間違いなかった。
「ね、ねっ。これであたしたち助かるよ。捨てるんじゃないし、隠すんでもなくて売るんだから、夏っちゃんも賛成だよね」