第六章


 部屋にこだまする派手なくしゃみ。痛みを訴えるかすれた声がそれに続いた。
「痛たたた……誰よ、人の噂してるの」
 ようやく、リリンは意識を取り戻した。懸命に身体を捻るも、空中では自分が上を向いているか下を向いているのかさえわからない。見事な着地など、できるわけもなく床に打ちつけられ気を失ってしまった。
 それでも、あの高さから真っ逆さまに落下して気絶だけですむあたり、さすがの反射神経としか言いようがない。
 はっきりしない意識を取り戻すよう、途切れ途切れに呻きを発し、疼く足首に手を伸ばそうとしたところで、ようやくリリンは気がついた。両腕が荒縄で、きつく縛られていることに。しかも、リリンを縛り上げているロープは天上の金具に通されており、小柄な身体は宙吊りに束縛されていたのだ。
「捕まったんだ……」
 心細くて泣き出しそうになるのをぐっとこらえ、リリンはこの状態からの脱出を考えた。
 どうやらまだ、魔法も封じられたままであり、下手に暴れても体力を消耗するだけ。かといって、このまま黙っていればなにをされることか。
 なにせ、薄暗い視界に映る部屋には、使い方はわからずとも見ただけで恐怖を覚える拷問器具が、ずらりと並んでいるのだから。相手はあのタイラブである。どれだけむごたらしく凌辱されてもおかしくはない。
「アルス、無事よね。早く助けに来て」
 祈りにも似た声が震えながらこぼれたとき、ドアのきしみ開く音に続いて、ろうそくの光が目に入った。
「お目覚めですかな、お嬢様」
「タイラブ……離しなさいよ!」
「元気がおよろしいことで。いつまでその威勢が続くか楽しみだ」
 扉に頑丈な錠をおろすと、舌なめずりをしつつタイラブは、身動きの取れないリリンににじり寄った。
「来ないで! 変なことしたら許さないんだから!」
「誰がどう許さないと言うんだね。お嬢様の騎士は一目散に逃げ出したよ。君を捨ててね」
 絶望的にゆがんだ頬が下を向いた瞬間、抱きつかんと飛びかかったタイラブ。しかし、
「ぎゃっ!」
 多くの拷問器具をなぎ倒し、小男はひっくり返った。腹筋を使って曲げ上げた足で、襲い来たタイラブを思い切り蹴り飛ばしたのだ。腫れ上がった足首ではあったが、痛いなんて言ってはいられない。
「触るな変態っ!」
「小娘がっ!」
 怒りをむき出しにしたタイラブは、それでも冷静であった。壁際に身を寄せ、壁づたいにリリンの背後へと足を進める。
「後ろからではどうしようもあるまい。ん、どうだ?」
 リリンは必死に向き直ろうとしたが、うまくいくはずもない。ついには耳の裏に、タイラブの生暖かい息を感じてしまった。
「や、来ないでっ! うあんっ!」
 なおも暴れんとするリリンの背中が激しく殴りつけられた。息ができなくなるほどの痛みが走り抜ける。
「もっといい声で泣け。そのほうが犯しがいがある」
 サディスティックな言葉が絶望に追い打ちをかけると、胸がまさぐられた。
「あの男には優しく抱いてもらったんだろうが、わたしは違うぞ。ここにあるすべてを使って、辱め抜いてやる」
「やめて、やめてお願い……」
 首筋をぬったりと舌が這い、リリンの全身が粟だった。そして、乱暴な手が胸元を引きちぎり、直接胸を弄ぼうとするに至って、ついにリリンは死を覚悟した。舌を噛み切れば死ぬことはできる。母親のことを思って耐えてはいたが、それも限界を越えてしまった。
「悔しい……」
 その悲痛なつぶやきが、リリンの最期の言葉にならずにすんだのは王狼の言葉通り、手の甲にある輝幻石のおかげであった。
 力を振り絞るように輝いた輝幻石は小さな火球を生み出し、それをあえてタイラブではなく、扉を閉ざす錠前に撃ちつけたのだ。
 衝撃音に驚くタイラブの目の前で、乱暴に扉が開け放たれた。まぶしげにタイラブは、片手で目元を覆う。
「誰だ! ここには入るなと……こ、これは伯爵様。どうなされました?」
 そこに立っていたのは、顔の左半分を仮面で覆った男、レッドベリル伯爵であった。
「タイラブ」
 冷たい刃を思わせる声に、色狂いの商人は縮み上がった。
「お楽しみとは悠長なことだな」
「え、ええ、まあ」
「あまり、酷いことをするなよ」
 凌辱の邪魔をされるわけではないと感じ取ったタイラブは、それとわかる安堵の息を漏らした。
「どうです、ご一緒に」
「貴様と? 俺にそんな趣味はない」
「まあそうおっしゃらずに。気性は荒いですが、なかなかの上玉で。ほら、伯爵様に顔を見せてさしあげろ」
 顎をつかむ汗ばんだ指が、無理矢理リリンに正面を向かせ、もう一方の手が脇に置かれた、三叉の燭台を握った。
「わざわざ、ろうそくか」
「気分が出ましてな。他に使いようもありますし」
 下品極まりない笑声に、うんざりした半顔は、淡い炎に浮かび上がった少女を一瞥した。
「その腕は!? ……サリエラ」
 瞬間、なんの感情も宿していなかった黒い瞳が大きく見開いた。
「はっ、なんと?」
「タイラブ、その娘は俺がもらう」
「そんなご無体な! この娘には前々から目をつけて」
 反論を試みたタイラブだが、返答より先に繰り出された横殴りの一撃に吹き飛ばされた。
「失せろ」
 唇の端から血を垂らすタイラブは立ち上がることもできず、突然に心変わりした伯爵を、驚きと恨みの混在した目で見やった。
 レッドベリル伯爵は剣を抜くや、やはり驚きを強く表情に浮かべたリリンを吊るす荒縄を切った。それだけでなく、足首の痛みにうずくまるリリンを優しく立ち上がらせもした。
「伯爵様! ……娘の手にある輝幻石、それをお渡し下さい。融合に、使いますので」
 せめてもの抵抗か、タイラブはリリンの宝とも言える輝幻石を要求した。
「だめ、これだけはやめて!」
 しかし、両手首の縄はそのままであったため、抵抗も虚しく緋の輝幻石は刃先で慎重にえぐり取られた。
「持っていけ。痛くはなかったか?」
 輝幻石を無造作に放り、まるで対称的な、優しさの塊とも言える声がリリンにかけられる。紫に変色した手首の縛めも断ち切られた。
「返事もできんほど痛むか?」
 とまどうリリンはただ、首を左右させた。
「そうか。だが歩くのは、少し無理そうだな」
 平気、と強がったリリンであったが、やはり腫れ上がった足首では、まともに立つことすらできなかった。
「我慢しろ」
 そう言って伯爵はリリンをそっと抱き上げた。背中に刺さる双眸を知りながら、振り返る素振りさえ見せずに拷問部屋を離れた。


 巨大なベッドに、うつ伏せに寝かされたリリンは、警戒心の解けない眼差しを釘づけていた。傍らの椅子で足を組むレッドベリル伯爵は強い視線を受け、静かに言った。
「お前を汚しはない。そんな目をするな」
「助けて……くれたのよね。どうして?」
「爺が、オフレイムがこれに文をつけて寄こした」
 伯爵の手のひらには、野に住むに適した枯れ草色の小鳥がおとなしくうずくまっていた。
「こいつも随分と老いたな。羽に艶がなくなった。だが、俺から離れて三年になろうというのに、覚えていてくれた。なにより爺がこれをまだ、飼っていたことに驚かされた。とっくに、あきれられたと思っていたからな」
「手紙には、なんて?」
「即刻、タイラブに会いに行けと。そうでないと後悔するとな。さすがは爺だ。相変わらず、間違いのないことを言う」
「あなたは女子供でも、喜んで殺す人でしょ。殺人鬼になんの後悔があるってのよ」
「礼はいらん。だが、礼儀ぐらい知れ!」
 リリンの辛辣な言葉にレッドベリルは厳しい語気で応えた。しかしその声は、すぐに穏やかな調子に戻った。
「怒鳴って悪かった。お前の着ている服、亡くした娘が、サリエラがとても気に入っていたものでな。つい」
 半仮面卿と恐れられる彼も人の親。リリンに娘の幻を見た。沸き上がるであろう、その気持ちを頼りにオフレイムは、自らの主君に助けを求めたのだ。
「あたしが悪かった。ありがとう」
「いや、間に合ってよかった」
「ほんとにそう思う。触られただけで、気持ち悪くてしょうがなかったもの」
 舐められた首筋を拭いながらリリンは、思い出したように身震いをした。自分で起こしたその小さな振動が痛みとなって足首に届き、顔が苦痛にゆがむ。
「痛むか?」
「ちょっと、ね」
「これを飲んでおけ。鎮痛剤だ。よく効く」
 レッドベリルは引き出しから取り出した白い錠剤二粒と、水の入ったグラスをリリンの口許に運んだ。リリンは少し首をもたげ、こくっと飲み下した。
「腕は痛まないのか?」
「見た目はあれだけど、これはあたしの腕なの。王狼が――」
「言うなっ!」
 レッドベリルはいきなり、その手のグラスを壁に投げつけた。ガラス片と水が床に散る。
「その名だけは口にしてくれるな」
「どうして、そんなに憎むの? どうして?」
「……仇だ。妻と娘のな」
「そうだったの。だけど、輝幻石にも命――」
「知っている! そんなことは誰よりもな。お前の腕と……同じだ」
 そう言うや伯爵は半仮面卿たるゆえんである、光る銀の仮面を取り外した。露になった顔面には無数の、それも死んだ魚のように精気のない瞳が所狭しと乱雑に並んでいた。
 その幾つかは、むごたらしく潰されてもいる。おそらく、伯爵自らが行ったことだろう。
 思わず顔を背けかけたリリンだが、どうにか耐えた。正視はできなかったが。
「ふん、気味が悪いか。無理に見るな」
「ううん、無理なんかしてない。輝幻石の正体に、いつ気がついたの?」
「そう難しい謎解きではない。憑依された部分にあったはずの輝幻石が消えていた。死体を十も見ればわかることだ。お前とは、同じ場所にいたようだな。呪いを受けた、三年前の晩餐会に」
「ええ、いたわ。あたしたち一族は、輝幻石を発掘して生活をしていたの」
「ならば見ただろう。どれだけの者が苦しみながら死んで行ったか」
「けどそれは、人間にも非があって」
「少なくとも、輝幻石を売りさばく俺にも、発掘を生業にする一族にも非はある。だが、妻や娘はただそこに、居合わせただけだ」
「でも」
「もういい。お前になら、わかると思ったんだがな」
 懸命に怒気を抑え、レッドベリルは呻いた。
「あたしだって、ずっと憎んでた。母さんは意識をなくして、寝たままで」
「眠ったままなら幸せなほうだ。妻も娘も、苦しんで苦しみぬいて、俺がこの手で……殺すしかなかった」
「あなたが手にかけたの!? なんてひどいことを……」
「ひどいだと。俺は二人を苦しみから解放するために、他に取る術もなく」
「違う! 嘘ついてる」
「なにっ!?」
「あなたは自分が楽になりたかっただけ。苦しむのを見ていたくなかった。自分が苦しみから解放されるために殺したのよ!」
「ふざけたことをぬかすな! 妻も娘も、最期は泣きながら頼んだ。楽にして欲しいと、だからっ!」
「なんて言われたって、あたしにはできない。一緒に苦しんで、どれだけ辛くても最期まで離れない。だって死んだら、帰って来ないんだよ。どれだけ後悔しても、戻らないんだよ。本当に愛してる人、どうして手放すの。抱きしめた腕、緩めて……どうするのよっ!」
 言葉の最後は涙と鼻水で、ぐちゃぐちゃに乱れた。こみ上げる怒りに身を震わすレッドベリルであったが突然、顔を抑えて苦痛に満ちた叫び声を上げた。
「くっ、ぐわっ! ……ば、化け物が、負けん、俺は負けんぞ!」
 油の切れた機械仕掛けの人形のように、つっかえつっかえに動く身体が机など調度品をなぎ倒し、リリンに与えたのと同じ鎮痛剤を一握りも口にこじ入れた。
「……どうしたの?」
 唖然と見つめることしかできなかったリリンが、ようやく尋ね聞いた。
「この、苦しみ。刺すような焼けただれるようなこの苦しみに女が耐えられるか!」
 床に膝から崩れ、荒い息で肩を上下させていたレッドベリルであったが、その肩の動きも三十ほどで静まった。そして、何事もなかったかのように立ち上がると仮面を付け直し、部屋の呼び鈴を打ち鳴らした。
「お呼びですか、伯爵様」
「この娘を独房に放りこんでおけ。俺以外、誰の命令があっても面会は許すな。絶対だ」
「はい。わかりました」
「少しの距離だ。無理でも歩け」
 冷たくそう言いながらも伯爵は自らのマントを外すと、引き裂かれ下着が露になったリリンの胸元を隠すように、肩にかぶせ置いた。


 薄暗くはあったが、室内は思いのほか広かった。あくまで、独房にしてはであるが。湿った匂いは黴の存在を示し、周囲の石壁には埃が溜まり、黒っぽく変色している。
「言いすぎたかな、やっぱり」
 固いベッドに寝転んだリリンは、後悔を口にした。言いたいことを言いはするが、あとで気に病むのがリリンの常。
 これで繊細なのよね、などと自分では思っているようだが、他者がどう取るかは判断の別れるところであろう。
 無人島に、ひとり流れ着いた人間の元に数年ぶり、同じように遭難した人間が現れた。しかも、親しい人に似た。レッドベリル伯爵はそんな気持ちだったと、リリンは考える。
「なのに、言葉が通じなかったら辛いよね……でも、謝ってなんかやらない。間違ったこと言ってないもん」
 鎮痛剤が効いたのか、リリンはゆっくりと立ち上がり、それでも片足で跳ねながら扉へ進むと、厚さを確かめるため数度弾いた。
「殴ってどうこうできる厚さじゃないわね。輝幻石、取られちゃったし……」
 大きくくぼんだ左手をさすりながらリリンは、ごめんねと何度も心で謝った。なにより、腕に居つく幻獣に申し訳なかった。母親と離ればなれにしてしまったのだから。
 輝幻石の喪失を心の底から悲しむリリンであったが、自らの運命に関してはまったく悲観していなかった。
 ベッドに取って返しリリンは、怪我と体力の回復をはかることに、要はゆっくりと眠ることに決めた。アルスが救出に来てくれることを、この湿った布団に潜むダニの大きさほども疑ってはいなかったから。


 頬が軽く、本当に軽く、撫でるように叩かれた。リリン、滑らかにそう紡がれる音。穏やかなのに眠りを突き抜け届く声。
「遅いよ、アルス」
 目を閉じたままで、リリンはかすかに唇を動かした。
「すまん」
「ばかばか遅い!」
 ほの暗い独房に涙声が反響する。そのまま跳ね起き、抱きつこうとしたリリンはしかし、その行動を止めた。 
「また、裸」
「忍びこむには溶解するしかなかったんだ。それでも、オフレイム殿がここだって目星を。鍵まで手配してくれたおかげで」
「わかったから、早くこれで隠して」
 リリンは、はだけた胸元を覆っていた伯爵の黒いマントを手渡した。
「リリン、その服どうした?」
「見ちゃいや」
 そう言うやリリンは、停止した時間だけ加速した気持ちをそのままに、アルスの胸に飛びこんだ。
「もうちょっとでタイラブに。でも、伯爵が助けてくれて……怖かった、ほんとに怖かったんだから! あたしあたし……」
 後は言葉にならなかった。
「無事で、よかった。ごめんな」
 胸に直接、熱い涙の雫を感じるアルスの乾いた舌が、それだけをどうにか言葉にした。
 そのまま、ほんのわずか時間が流れた。髪を優しく撫でてやりながらアルスは、ゆっくりと小さな身体を引きはがした。
「足はどうだ? 正直に言ってくれ」
「ん、無理したら走れると思う」
「無理したらか。なら、階段も避けたほうがいいな。自動昇降機、使うか」
「ここ、やっぱり地下なの?」
「ああ、地下の四階。それも一番奥だ。警備はたいしたことないが、俺も丸腰だからな」
「輝幻石、取られてなかったら……」
「リリンが無事だったんだ。それだけで――」
 言葉の途中、アルスが大きく舌を打った。扉の向こうから響く足音の打ちつけが、徐々に近づいてきたのだ。
「まずい。鍵開けたままだ。くそっ、力ずくで突破……騒がれたら全部無駄か」
「隠れてアルス」
「どこへ?」
「溶解。ほんのちょっとだけ溶解して。なんとかごまかすから」
 拳を握りしめたアルスは、なぜかリリンの瞳を覗きこんだ。
「なにしてるの、早く」
 鍵が差しこまれ、かちゃりと回転する音。次いでノブが乱暴に回されたが、扉が開くはずもない。慌てて再度、金属のこすり合う音が響く。
「いたか」
 若い兵卒は安堵のため息をついた。
「いるに決まってるでしょ。なんの用?」
「食事を持ってきた。冷めないうちに食べろ」
「そこに置いといて」
 リリンはベッドに腰かけたまま、視線のかけらも当てずに言い捨てた。
「あとで伯爵様が」
「じろじろ見てないで、早く出てってよ。乱暴されかけたって言いつけるわよ」
 鼻白んだ兵卒は反論もできないまま、踵を返した。慎重に施錠を確認する音を残し、規則正しい足音は消えて行った。
「もういいよ」
「ああ」
 低い声に続いて、アルスは溶解から回復した。けれど、
「アルス!?」
 浮かび上がった身体は、背後の汚れ煤けた石壁を透き通しているではないか。間違いなくアルスはいる。しかし、その輪郭はぼやけ、ほとんどの色をなくした身体は透明に近い。
「なに、なんなの……?」
「あとで話す」
「いや! いま話して、すぐ話して! でないとあたし、ここから動かない」
「声がでかい。看守が戻って――」
「話してっ!!」
「……陽炎の宿命。身体が限界を越えたんだ。こうなったら、手の打ちようはない」
 諦めてアルスは小さくつぶやいた。
「砂を一掴み握って、軽く上に投げる。手のひらで受ける。砂は風に流されたり、指の間からこぼれたりで減るよな。それを何度も繰り返したら、最後にはなくなる。溶解も同じ。空気に溶けるうちに、少しずつ身体をなくしてるんだ」
「じゃあ、ステラマリスが言ってたのは……」
「あと少しで、俺は消える。死ぬわけじゃない。色がなくなるだけだ。でももう、リリンとはいられない」
「なんでよ?」
「俺が側にいても、リリンには見えないんだぞ。俺は気づいたってもらえない。そんなの、悲しいだけだろ」
 そう決めつけたアルスを睨みつけてリリンは、運ばれた食事からフォークを握り上げるや、いきなり自分の顔に突き立てようとした。
「なにするんだ!」
 わずかの差で、アルスがリリンの腕を握った。そのままねじられた手首は抵抗もむなしくフォークを落とした。
「目を潰すの。それなら消えたって関係ない! どこにも、いかなくていいでしょ」
 アルスの瞳には、紛れもない喜びが浮かび上がった。想われているのがわかったのだから。強く、ここまでも強く。
「やめてくれ。俺はリリンの目、好きなんだ。そんな綺麗なもの壊すんじゃない」
「じゃあ、一緒にいてくれるよね。ねっ」
 しかし、アルスは首を左右させた。喜びが深かったぶん、とても辛そうに。
「ほんとのこと、言って。嘘つかないって、約束したでしょ」
「……わかった。俺は消える。この世界から、完全に消え去るんだ。いまはまだ、固体と気体の間みたいな状態だ」
 言いながらアルスは、手首から先がなくなった左腕をリリンに差し出した。
「溶解とは違う。触ってみろ、ないから」
「そんな……」
「一緒にいたい、いたいさ。でも俺にはもう、リリンを抱きしめることだって……できやしない。行こう、時間がない」
 しかし、リリンは動けなかった。立ち尽くし、瞬きすら忘れ、わなわなと震える。
「ごめん、ごめん……ごめんっ!」
 そう叫ぶや、まさしくリリンは突進。さしものアルスも押し倒され、しりもちをついた。
「あたしのせい。あたしがアルスの剣見つけなかったら、わがままなこと言わなかったら、あたしが、あたしが! ……ごめんなさい」
 涙腺が決壊したかと思わせるほど、リリンの目からは涙が溢れた。
「謝るの、初めて聞いたな」
「ずっと思ってた。何回も、ごめんって言いたかった。でも、でも……」
「そんなの、らくしない。リリンはいまのままでいい。そのままでいてくれ」
「あたしも死ぬ。一緒に死ぬ!」
「ばか。なんのために俺はここに来た。全部、好きでやったことだ。……ほんとは俺、伯爵の屋敷から輝幻石盗み出したあと、それを渡して逃げようと思ってたんだ」
 泣き続けるリリンの背に手首を失った腕を回してアルスは、どうにか上半身を起こした。
「逃げればよかった。あたしなんか捨てて……だって死ぬんだよ! 怖く、ないの?」
 死ぬのが恐ろしくない人間などいるはずがない。それでも、訊かずにはいられなかった。
「そりゃ怖いさ。でも、陽炎はそれが運命なんだ。一回でも溶解すれば、身体は空気に少しずつ溶け続ける。止めることはできない。だから少し、消えるのが早くなっただけだ」
 優しい瞳で、これ以上ない優しい瞳でアルスはリリンを見た。記憶に焼き付けるように、瞬きさえ惜しむようにじっと。
「それにリリン、言っただろ。誰かが覚えててくれる間は死んでないって。思ったんだ俺、このままただ消えて死ぬのを待つぐらいなら、リリンといたいって。リリンなら俺のこと忘れないって。だから、なにがあっても生きてくれ。リリンが覚えててくれれば――」
「忘れるっ!」
 リリンの叫びは、アルスの心を凍てつかせるように響いた。
「……忘れるって、お前」
「だってあたし、ばかだもん! もう、アルスの顔なんて忘れかけてる。明日には全部忘れちゃう。だから……忘れさせないで。いつでも隣にいて、いつでも思い出させてよっ! お願いだから、どこにもいっちゃ……やだ」
 アルスは瞬間戸惑った。どんな顔をすればいいのかわからない気がした。しかし、思えばなんとリリンらしい言葉だろうか。微笑む以外に、どうしようもあるわけがなかった。
「顔、上げてくれ」
 しゃくり上げるリリンは両手で涙を拭いながら、ほんの少し顎を上に向けた。アルスの黒髪が手のかわりに動き、その角度を修正したかと思うと、唇が合わさった。
 驚きで目を見開いたリリンではあったが、瞼をただ、下ろした。
「物忘れがひどいリリンお嬢さまでも、キスした男ぐらいは覚えててくれるだろ。それとも、覚えきれないほど経験済みか?」
「……キスなんて、初めてだもん」
「なら、なおのこと忘れないよな。頼む。俺をまだ、殺さないでくれ」
「もう一回、して。そしたら、覚えててあげてもいいわ」
 涙声ながら、いつもの強気を思わせるその言葉にアルスはうなずき、一度目より少しだけ強く長く、唇を触れ合わせた。
 名残惜しそうに唇が離れても、しばし目線は絡む。沢山の気持ちを声にするかわり、跳ねるように立ち上がったリリンは扉に手を当て、あっ、と小さな声を上げた。
「向こうから鍵、かかってる。こっちには鍵穴なんてないわよ」
「任せろ」
 歩み寄ったアルスの身体は、ぶ厚い鋼鉄の扉をすり抜けた。
「ほら、開いたぞ。なんて顔してんだよ」
「だって……」
 固体を透過できる。それだけアルスは、人間から遠ざかっている。そのことがリリンには切なく痛い。
「もう泣くな。未練が残るだろ」
 くしゃくしゃっと、アルスはリリンの髪を乱暴に撫でた。
「待ってろな。看守を片づけてくる」
「ひとりじゃ危ないわ。そんな身体だし」
「そんな身体だから、壁んなかを通って行くのさ。隙さえつけば気絶ぐらいは軽い」
 その言葉をあっさりと実践してアルスは、リリンの元に駆け戻った。
 リリンの足は言葉通り、普通に歩くにはなんら問題ないまでに回復していた。打ちつけた背も同様、薬のおかげもあってか痛みはほとんど感じない。
 それでも身体は、思うように前に進んでくれない。幾つもの重りをくくり付けられたように、動かない。沈んだ心が身体を縛めている。なにより、前を行く半透明のアルスの背中を見ると、どうしても涙ぐんでしまう。だから、まともに歩けない。
「おい、こっちだ」
 自分の足元しか見ることができなかったリリンは、アルスが曲がったことにも気づけなかった。
「あ、うん」
 曖昧に微笑み上げた瞳は、アルスの表情が一変したことに気づいた。鋭い視線はリリンを突き抜け、その後ろを睨んでいる。
「走れリリン! 半仮面卿だ」
 振り返った視界には猛然と進み来る半仮面卿、レッドベリル伯爵の姿が。きつくつり上がったその目は、奇妙な姿を見せる侵入者への威嚇なのか、それとも、愛娘に似た少女の裏切りに対する怒りなのか。
「来い! 早く!」
 自動昇降機に半身を入れたアルスが叫ぶ。
「ごめんなさい」
 伯爵に向け、深く頭を下げたリリンはすぐさま身を翻し、アルスの元へと駆けた。
 わずかの差で逃れた二人を乗せて昇降機は、勢いよく上昇を始めた。


 幸いなことに、昇降機の出口付近に人気はなく、二人は肩を並べて無人の廊下をひた歩いた。天窓から射しこむ太陽の強さを見て、いまが真昼だとリリンは知った。
「オフレイム殿が馬車を近くに待機させてくれている。もう少しだ」
「うん。足は平気よ」
 固い笑顔を返したリリンの目の前でアルスは突然、つまずくものなどなにもない、平坦な絨毯にも関わらず転倒した。
「リリン、先に行け」
「どうしたのよ? ほら、つかまって」
「いいから行ってくれ。右足が消えた」
 リリンはその言葉にも、アルスの顔から視線を外さなかった。見てしまったら、また泣いてしまうから。
「ほらほら、立って立って」
 明るい口調で抱き起こし、肩を貸す。
「ちゃんと最後まで、守ってちょうだいよね。頼りにしてるんだから、ね」
「……わかったよ。人使いの荒いやつだ」
「痛むの?」
「感覚がないからな。痛みもない」
「もうちょっとだからね。もうちょっとで」
 そこでリリンは継ぐべき言葉を見失った。もうちょっとで、どうなるというのか。アルスは自分で、手の打ちようがないと言った。アルスはもう少しで……
「ああ、もうちょっとだ。あいつが、すんなり通してくれればな」
「伯爵……」
 剣を構えたレッドベリル伯爵が、前方から迫りくる。階段を駆け上がったのだろう。荒い息を隠そうともせず。
「もてるんだな、リリンは」
「こんなかわいいんだから、当然でしょ」
「おとなしく牢へ戻れ」
 軽口に、ずしりと重い響きが割って入った。
「いやよ。助けてもらったのは感謝してるけど、あたしの自由を取り上げる権利はないわ」
「ならば、力ずくでも連れ戻す」
「お願い、やめて」
 リリンの必死の懇願も、聞き入れられる気配はない。
「邪魔だよ、伯爵。リリンはお前の娘とは違う。勘違いしてんじゃねえっ!」
 半面が、さっと青ざめた。しかしすぐに真っ赤に紅潮。染め直された。
 剣を振りかぶり伯爵は一直線に間合いを詰める。いまのアルスには厳しすぎる攻撃。
「怒らしてどうすんのよ!」
「んなに怒るとは思わんかった」
「余計なこと言うからでしょ、ばか」
 なじりつつもリリンはアルスをかばうため、迫る伯爵の前に立ちはだかった。
「どけ、娘。どくんだっ!」
「死んでもどかないっ!」
 言い放ったリリンであったが予期しない背後からの力、アルスの腕に押し退けられた。
 バランスを崩しつつ見やった視界の中央で、伯爵の剣がまっすぐ身体ごと、アルスを貫かんと伸ばされる。仮に万全の体調であっても、避けることはかないそうもない、鋭く激しい刺突であった。
「なにっ!?」
 伯爵の身体が抵抗なくアルスを突き抜けていた。人間も固体、透過したのだ。アルスはすぐさま勢い余った伯爵の背中に、足首をなくした右脛で回し蹴りを食らわした。大きく吹き飛び、壁に激突した伯爵は驚きを呻く。
「貴様は一体!」
「見ての通り、死にかけの騎士さ。リリン、顔を腕で守れ」
「え?」
「いいから!」
 きつい口調と腰に黒髪が巻きついたのと、どちらが先だったろう。リリンの身体は持ち上げられるや、反動もなしに放り投げられた。太陽を取りこむ、ガラスの天窓目がけて。
 うっきゃーっ、という叫びを覆う、砕け散るガラスの断末魔。上方向に感じた空気の抵抗が下方向に変わる。突然のことに、ただ重力に任せるだけしかできないリリンの身体は、
「ナイスコントロール」
 と自賛するアルスの腕のなかに確保……されたかと思いきや、そこから転げ落ちた。
「はは、わりい」
「わりい、じゃなーいっ! いきなりなんてことすんのよ」
「逃げれたんだ。気にするな」
 そう。アルスはリリンを窓から外に投げ、自身は壁をすり抜けて、とりあえずの脱出を果たしたのだ。
「気にするわよ。ああもう、びっくりした」
「文句を聞いてやる暇はない。いまの派手な音で、衛兵にも気づかれたはず――」
「いたぞ! こっちだ!」
「逃げた、女が逃げたぞ!」
 案の定、周囲を巡回中であった二人組が走り来る。槍を掲げるその後方には伯爵に引き連れられた一団が姿を現した。
「しつこい野郎だ。キリがねえ」
 さすがのアルスも身体の状態が状態だけに、ここから逃げきることの困難さを口にした。
 続々と現れる兵士の群れ。弱気が現実となりかけたそのとき、木々の間を縫うようにして走り来た空の荷馬車が兵士たちの真ん中を突っ切った。戦場で身につけたであろう、激しい手綱さばきで陣形を千々に乱す。
 荒々しく馬を操っていたのは、オフレイムその人であった。リリンとアルスをかばうよう、馬車を割りこませた。
「嬢ちゃん、アルス殿。早く乗るのだ」
 これぞまさしく天の助け。アルスを引きずりながらリリンは荷台に飛び乗った。
「爺……俺の邪魔をするのか」
 大きく歩み出た伯爵がオフレイムを睨む。
「主君の過ちを正すは、配下の役目」
「俺が間違っている。そう言いたいのか?」
「……おさらば」
「待ていっ!」
 伯爵は両手を大きく広げ、馬の前に飛び出した。
「いまさら忠義面か! なぜ、俺が本当に必要としているときに……姿を消した?」
「甘えておりました」
 その問いを予期していたのか即座に、オフレイムは言い切った。
「わしは伯爵様を、おこがましくも息子のように思うておりました。さすれば、奥様は娘。お嬢様は孫。身を捨ててもお守りしようと」
 オフレイムは大きく息を吐きつつ、瞼を閉じた。幸せだった過ぎし日を思い出しているのかもしれなかった。
「相手は王狼、わしがおってもなにができたわけでもありますまい。それでも、どの面下げて御前に出れましょうや。警備隊長の大任より、妻の看病を選んだ大馬鹿者が」
「…………」
「わしは待っておりました。伯爵様がこのじじいを呼びつけて、なじって下さる日を。当たり散らし、殴りつけて下さるときを。伯爵様が立ち直るにはわしが必要だと、甘えておったのです。しかし」
 かっと目を見開いたオフレイムの語気は、急激に荒立った。
「気づけば商国の甘言に踊らされ、半仮面卿などと恐れられる始末。それゆえに恥を忍んで、お目通りを願った。会いさえすれば昔に戻られると、そう信じて」
「だが爺は、なにも言わなかった。俺を哀れむように見ただけで、なにも言わなかったではないか!」
「伯爵様――」
「その呼び方っ! あのときもお前はそう呼んだ。伯爵様と、氷のように冷やかな声で! これ以上邪魔だてするなら……斬るっ!」
「お斬りなさいっ! ……なにも言わずただ、死ぬまでお仕えすることがわしに与えられた罰だと思うておりました」
 額に血管を浮き上がらせたオフレイムは、その顔を一瞬だけリリンに向けた。
「それは、大きな間違いじゃった。これ以上無法を尽くすならこの白髪首を供に、死んでいただく。抜かれよ」
 声に応え、伯爵の手が柄に伸びる。強い眼光でその動きを刺しつつオフレイムが、馬車から降りようと動きかけたそのとき、大きく大地が弾んだ。次いで地鳴りが、腹の底から震え上がりそうになるほど不気味な猛獣の雄叫びにも似た轟音が、地中深くからせり上がるように響いた。
「オフレイム殿、ここから離れるんだっ!」
 アルスが叫ぶ。鬼気せまる表情と声に問い返しの言葉は必要ない。
「お前たちも走れ!」
 兵士に向けてもアルスは叫んだが、男たちは互いに顔を見合わせるのみ。
「迷ってる場合じゃない。いいから急いで!」
 理由はわからずとも、リリンも危険を感じ取っていた。それも桁外れてたちの悪い、命を脅かす危機を。
「娘の言葉に従え。早く逃げよ!」
 伯爵の命令が加わるに及んで、ようやく兵士はことの重大さに気づいたか、武装を投げ捨て駆け出した。
「お乗り下さい!」
 伯爵の横を馬車が駆け抜ける。オフレイムが懸命に伸ばした手から伯爵は目をそらした。
「かわるわ!」
 リリンはオフレイムの横に跳び、手綱を奪い取った。極限まで身を乗りだしてオフレイムは、主君の身体を引き抜いた。
 伯爵は背から荷台に落下。しかし、苦痛を強く漏らしたのはオフレイムであった。
「おじいちゃん、傷が開いたんじゃ?」
「なんのこれしき……」
 強がるオフレイムに向け、身を起こした伯爵が口を開きかけたそのとき、後から強い衝撃波が襲い来た。周囲の木々は根こそぎ、無論馬車などひとたまりもなく吹き飛ばされた。
 爆風になすすべなく、大地をただ転がるリリンが見たものは、巨大な研究所を粉々に砕き飲みこみながら突き立つ、破滅的に美しい七色の光線。雲の遥か上にまで伸びるその破壊の虹は、なにかを叫びながら天を二つに割っているように思えた。


 なおも続く破壊の風に、身を引きちぎられそうになりながらリリンは、這いつくばってアルスの姿を求めた。
「どこ、アルス! どこなの!」
 必死の言葉も、自分の耳にすら満足に届かない。強い風に目を開けることもできない。
 もどかしい時の流れにリリンはいらだった。七色の光線が、すさまじい力の放出をやめるまでの時間は本当に長く感じられた。
 幹の半分を失った大木の裏からようやく、リリンと名を呼ぶ声が届いた。四つんばいのまま、リリンは急ぐ。
「よかった、無事だったのね」
「なんとかな。オフレイム殿は?」
「こっちじゃ。そう簡単にくたばりはせん」
 同じように木を背にして、爆風をやり過ごしたオフレイムが片手を掲げた。
「伯爵様は――」
 オフレイムの尋ねは、リリンの耳にもアルスの耳にも入らなかった。再び莫大な音が、今度は巨大な歯車が回転するような響きと振動が、付近一帯を覆ったのだ。
 ぽっかりと開いた、底さえ見せぬ深く大きな穴からせり上がり出たのは、地下五階で見た巨大で美しい、そしていびつなあの、輝幻石の集合体であった。
 太陽を受けて一層輝きを増す、台座にしっかりと固定された輝幻石を満足げに見上げているのは、トリグラフ商国大使タイラブ。その傍らには黒ずくめの強化人間が十人余、魔道士がやはり十人ほど。
「タイラブ、狂ったか!」
 激昂した声は伯爵のものだった。目を血走らせ、大股にタイラブに詰め寄ろうとしたが、強化人間がその前に壁を作った。
「おや、ご無事でしたか。それはそれは。実験ですので、お気になさらずに」
「貴様っ! ここは妻や娘と過ごした別荘、最後の場所。知らんとは言わせんぞ!」
「お忘れですかな伯爵様。王狼さえ殺せば、あとは好きにしてよいと、そうおっしゃったのはあなた様ではありませんか」
 そこまで言ったタイラブの顔面が醜くゆがんだ。泣き笑っているような、定まらない表情に変化した。
「弱い、弱すぎる。思い出に捕らわれるだけの、しょせんお前は女々しい化け物よ。なあに順番が変わっただけだ、未練なくあの世へ行くがいい。殺せ、殺してしまえ!」
 怒鳴りつつタイラブは赤黒い液体、輝幻石融合にも使った血液を強化人間にぶちまけた。そのとたん、びくりと動いた狂戦士は、咆哮とともに暴虐を開始した。不定の動きで伯爵に襲いかからんとする。
「なめるな!」
 伯爵は剣を抜き放ち、多勢に無勢を知りながら呼応する。
「その剣はっ!? 伯爵様……」
 伯爵が振りかざした刃を見るや、オフレイムの表情は驚きに満ちた。勢い駆け出そうとしたが、脇腹の傷はそれを許さない。
「あたしが行く」
「待て!」
「止めないでアルス。動けるの、あたしだけなんだから」
「誰も止めやしない。使え」
 アルスはリリンに、抱きかかえていた輝幻石の剣を差し出した。
「無理するな。危なくなったらすぐ逃げろ」
 大きくうなずきながら剣を抜いたリリンは、かすかに疼く足の不平を無視して、いきなりのトップスピードで走り出した。
 強化人間が力任せに繰り出す斬撃に、伯爵もまた力で応じていた。激しい撃ち合いに、まったく引けを取らぬ伯爵もまた、紛れもなく剛の者である。そこに敏捷が売りのリリンが乱入したのだから、形勢は優位に傾いた。
 柳のようにしなやかな動きで敵の体勢を崩したところに、伯爵が膂力にものを言わせた剛剣を振り下ろす。緋色の輝幻石が埋めこまれた伯爵の魔法剣も、さすがに業物であった。鎧を苦にもせず、地にまで切っ先が刺さる。
 しかし、そんな優勢な状況も魔道士の魔法一発でひっくり返された。数度の融合を重ねた、拳大の輝幻石から生まれる光の塊は、待ち受ける残虐な運命の象徴のようでもある。
「無理、近づけないわ。逃げるの早く!」
「逃げたくばひとりで逃げろ。商国の蛆虫ごときに好きにさせ……うくっ、ぐあぁっ」
 仮面の上から顔を掻きむしり、伯爵は片膝をついた。
「こんなものに俺は、いつまで俺はっ!」
「痛むのね。少し我慢して!」
 リリンは伯爵の脇に肩を入れ、半ば背負うようにして後退を始めた。威力が大きいだけに微妙な調整が効かないのだろう。大きく外れる魔法が大地を砕き弾き、巻き上がった土埃が目隠しの役割を果たしている。皮肉的だが、逃げるには好機。
 それを見てオフレイムが前方から、痛む身体を気合で抑え、手助けせんと歩みを寄せる。
「きゃっ」
 あと数歩で幹の裏に避難というところで、リリンの身体は押しつぶされた。伯爵の全体重が、重くのしかかったのだ。なにかの力に後ろから強く弾かれた、そんな感覚を伴って。
「若っ!!」
 目をむいたオフレイム。その足元に、半分しかない仮面が転げ落ちる。大量の血液を付着させた。砂塵の向こうから一直線、伯爵の後頭部を魔法が貫いたのであった。
 リリンを押し退けオフレイムは、力なく地に伏す自らの主君を傷だらけの太い腕で抱き起こした。
「若、しっかり……しっかりなされよ!」
 伯爵の顔は左部のほとんどが吹き飛び、普通ならば即死であったろう。しかし、そこに幻獣の寄生を受けていたためか伯爵はまだ、意識を保っていた。
「俺を、若と、まだ……呼んでくれるか」
「爺が、爺が悪うございました。若のお側を離れたばかりにこのような」
「爺は、さすがに爺だ。二度は間違わん。俺が爺を必要としている、いま、いてくれた」
「なにをおっしゃいます。爺は役立たずで、若のお命も……」
「爺しかおらん、俺の、ため、泣いてくれるのは。他……誰が、泣いてくれるものか」
「若……」
「ふっ。炎、魔神、オフレイムが泣いたと、皆に、話して……爺、俺は」
 伯爵はこと切れた。最期の言葉は、生者の誰の耳にも届くことはなかった。
 剛毅な老人が肩を震わせ、流れる涙もはばからず、泣いていた。リリンはかけるべき言葉も見つけられずに、ただその背中を見つめた。哀れではある。が、伯爵のために流す涙をリリンは持ち合わせていなかった。けれど、それでいいのだとも思った。
「ふははははっ! 死んだ、死におった化け物が。小娘にじじい、いまならまだ助けてやるぞ。どうする、ん?」
 オフレイムの身体が動きを止めた。
「だめよおじいちゃん! 挑発に乗っちゃ」
 ゆらりと立ち上がったオフレイムは、発する闘気だけでリリンの言葉を奪った。
「腐れ外道が。まともに死ねると思うなよ」
「聞こえんぞ死にぞこない。命乞いなら、もっとでかい声で――」
 突如、陽が翳った。世界の終わりを示すかのように大地が波打つ。すべての命にひれ伏せと迫るよう、激しく強く。
 銀の外殻に身を包んだ、巨大な体躯。太陽を背にしてそそり立つ、鋭角的なその身体。鎧獣を統べる者にして幻獣の守護者。現れしその生命体は、
「王狼っ!!」


 その場の空気が凍りついた。圧倒的な存在感は、王狼の真の顔を知っているリリンでさえ、なんの反応も返すことを許さない。
 現れ居出た王狼の金の両眼はただじっと、巨大過ぎる輝幻石を見つめていた。
「あの野郎、来るなって言ったのに」
「アルス……」
 片足で跳ね来たアルスは、リリンの側に倒れこんだ。その身体はますます色をなくし、黒い髪と蒼い瞳だけが、かろうじて存在を示していた。
「だけど、輝幻石は王狼を攻撃したりしない。正直、助かったと思うわ」
 リリンはあえて、アルスの状態には一言も触れず王狼を見上げた。
「王狼の姿、おかしいとは思わんか?」
「ほんとだ……なんか変よほ」
「縮んでるように見えんか全体的に。もっとこう、ごつごつとでかかったはずだが」
 王狼の身体は一回り以上小さくなっていた。それでも充分に威圧的な体躯ではあるが、その理由が二人には気がかりである。
「どうしたのかしら。体調が悪いとか……」
「だとしたらまずいな。タイラブにはなにか策があるはずだ」
「策?」
「あいつは汚い下司野郎だが、ばかじゃない。王狼に輝幻石が効かないと知っても、おびき出すつもりでいやがった」
 アルスの危惧を証明するよう、小さな身体を揺すりながらタイラブは余裕の表情のまま声を上げた。
「わざわざのお出まし、痛み入るよ化け物の親玉。会ったばかりで非常に残念だが、死ぬんでもらう!」
 タイラブが顎をしゃくるとすべての魔道士が、巨大すぎる輝幻石に両手を張り付け、魔力の集中を始めた。
「撃ていっ!」
 しかし、いや、もちろんタイラブの号令に、なんの応えが返るはずもない。
「無駄だ、人間。なにを用いようが我を屠るに足るものなど、この星にはない」
 厳格に響く王狼の一言一言が、夏の気温を奪い去っていく。
「ふんっ、それはどうかな。輝幻石が命の塊なら、痛みも苦しみもあるのではないか? 血をすすって巨大化した、こいつには特にな」
 そう言うやタイラブは足元に並ぶ小瓶のひとつを手に取り、おもむろに輝幻石に投げつけた。砕け散るガラスと並び、飛散した透明な液体が輝幻石の表面に付着すると、じゅうっと、焼けた石を水に放りこんだときと同じ音がした。幾筋もの白煙が立ち昇る。
「これがなにか知りたいか。そうか教えてやろう。魔力抽出溶液、あれを何十倍にも濃縮したものだよ」
 タイラブは聞かれもしない、身勝手な言葉を酔ったように並べる。
「痛まないと思うかね? いーやそんなはずはない。苦しまないと思うかね? ほらほら、どんどん溶けるよ」
 言葉の区切りごとに、タイラブは小瓶を投げつける。
「そろそろ頃合いだろう。撃て!」
 反応はない。
「無駄だと言ったはずだ。友をそのような姿に変えた報い、思い知るがいい」
 王狼がゆっくりと足を進める。
「やかましいっ!」
 小瓶がまた一つ、輝幻石を削り溶かす。かすかに輝幻石が揺れたように見えた。狂ったように溶液が連続で投げつけられる。
「撃ていっ!!」
 竜巻が水平に方向を変えたような七色の力の渦が、ついに輝幻石から発生した。悲鳴にも似た、大気の切り裂きを伴って。
 強烈な一撃が炸裂。あの王狼が大きく吹き飛んだ。ぴくりとも動かない。
「王狼!」
 リリンはただ叫んだ。他になにができるわけもなく。
「やった、やったぞ! これで森海は商国のもの。とどめだ。撃て、撃ち……ぎぃやっ!」
 タイラブの右腕が地面に転げ落ちた。予期せぬ方向から飛来した鋭い炎が、小瓶を握ったままの腕を肩から切り落としたのだ。
「いっちょ前に痛むか、外道。若の無念は、こんなものではないぞっ!」
 皆が王狼と輝幻石に気を取られていたとき、オフレイムは懸命に怒りを御し、隙をうかがっていたのだ。伯爵の魔法剣を、もとは炎の魔神と呼ばれた、オフレイム自身の持ち物であった愛剣を握り締めて。
「おいぼれがあっ! 殺せ、じじいも娘も皆殺しだっ!」
 痛みと怒りが混ざり合った命令に、魔道士は立ち位置を変更、オフレイムやリリンの対角線に身を移した。
 魔法の範囲はすでに目にしたよう、莫大なもの。到底、逃げられはしない。オフレイムの怒りは最悪な結果を引き寄せかけた。
 しかし、魔法が放たれるその一瞬のかすか手前、鋭い咆哮が押し寄せた。魔導師たちの動きが凍る。
 雄叫びの主、王狼は傷ついた巨体を震わせつつも起き上がり、その額にある第三の目を開いた。森海と同じ、深い緑の瞳から照射された光が輝幻石を包みこむと、美しい輝幻石は瞬時にその姿をなくした。
 蛇のようにうごめく触手の群れ。毛むくじゃらの手や足は無数。翼に角に数えきれない、恨みに満ち満ちた顔。人に似たもの、猛獣そのままの部分。そんなものが無秩序に組み合わさった、幻獣の塊が現れていた。
「食い合ってる!?」
 驚愕が王狼から漏れ落ちた。自らが引き起こした結果であったにも関わらず。しかし、それ以上の声はなく、王狼は崩れ倒れた。断末魔のかわりに大きな地響きを残して。
「これが輝幻石の……うわっ、離せ、離せ!」
 合成された幻獣の真下にいたタイラブは、逃げる間もなく触手に身体をからめ捕られ、その体内に飲みこまれた。
 呆然と見上げるだけの魔道士も次々と同じ運命をたどった。巨大な幻獣の融合体は、そんな程度の得物では飽き足らないとばかりに、ゆっくりと移動を開始した。
 ぬちゃりぬちゃりと、うごめくゲル状の巨体はその場に残った命を狙う。足があるべき場所に頭があるなど、身体の形成が不規則なため動きはのろい。しかし、限度を知らずに伸びる触手は、息を吐く間さえ与えずに、すぐそこにまで迫った。
 リリンもオフレイムも剣を振るって応戦するが、なにせ数が多い。取りこまれるのは時間の問題のように思えた。
「きゃっ!」
 背後という死角から地面を這い来た触手の一本が、リリンの足首に巻きついた。即座に斬り離したが、別の触手が剣を持つ左腕の自由を奪った。触手の先端に並ぶリリンの二の腕ほどはある棘が、打ちすえんとしなる。
 死すら覚悟したそのとき、異変は起こった。融合体から腕が、銀毛に覆われたリリンの腕をそのまま大きくした獣の腕が出現。鋭い爪で触手を撫で斬ったのだ。
「母さん、なの……?」
 間違いない。タイラブに奪い取られ融合された輝幻石が、リリンに宿る幻獣の母親が仲間を裏切ってまで、守ってくれたのだ。
 これはしかし、異変の序章であった。次々と現れる幻獣の身体の一部分が、お互いに攻撃を開始したではないか。腕と足が、牙と角が、翼と尻尾が激しく撃ち合う。
 その一方で触手はまだ、リリンたちを諦めてはいない。
 そんなとき、背後から馬蹄が轟いたかと思うと、リリンの身体は乱暴に奪い去られた。
「じいさん、乗れ!」
 その声はオフレイムに助力していた傭兵たちのもの。スピードを緩めることない馬車に、オフレイムはどうにか飛び乗った。
「なんじゃ、逃げだしたかと思っとった」
「ばか抜かせぃ。こいつの調達に手間取った」
 傭兵たちは黒い塊、炸裂弾を掲げ見せた。
「だが、んなもんじゃ役に立ちそうもねえな。このまま逃げるぜ」
「アルス殿と……若がいる。向こうだ」
「わかった。くそったれ、んだこの薄気味わりい紐はよ。一発食らわせ、吹き飛ばせ!」
 炸裂弾を放り投げつつ、馬車はなおも速度を上げざるをえない。
「止まったら終わりじゃ。誰か、アルス殿を引き上げてくれ」
「あたしがやる」
「嬢ちゃん、男でないと無理――」
「できるわ! ううん、あたししかできない」
 リリンの決意の瞳を見たオフレイムは、小さくうなずきを二度返した。
「アルス、もう少し右に動いて!」
 馬車の進路ぎりぎりに来るよう、リリンは指示を叫んだ。もはやアルスは立つことすらできないでいる。チャンスは一度きり。通りすぎざまの一瞬で、二人を救出するしかない。
 左に伯爵の遺体。右にアルス。その真ん中を馬車は抜ける。まずはオフレイムが身を乗りだし、主君の亡骸をつかんだ。半瞬の間も開けず逆方向では、リリンの左手とアルスの右手がしっかり握られた。
 身体ごと持っていかれそうな衝撃。リリンの肩が抜けそうに痛む。それでも、たとえ腕が引きちぎれようが、リリンが力を緩めることはありえない。半透明の身体が半分、荷台へと乗りかかったそのとき、
「いやーっ!!」
 アルスの右腕が消えた。しっかりと握りしめていた手が存在を消してしまった。木の葉のように吹き飛んだアルスを触手が奪う。
「だめじゃ嬢ちゃん!」
 飛び下りようとしたリリンの身体をオフレイムらが総出で押さえた。
「アルス! 離して、アルスっ!!」
 渾身の力でどうにか腕の自由だけを取り戻したリリンは、輝幻石の剣をアルスに投げた。それができる、最大のことであった。
 アルスは剣を唯一動く黒髪で受け取った。そして、ただ投げ返した。リリンの元へ、形見とばかり。
「アルス……」
 リリンは見た。アルスの口が、じゃあな、と動いたのを。あがくことなく微笑みながら飲まれていく様を。アルスで満足したのか触手は馬車への追撃をやめた。
 リリンは脱け殻のように潰れた。涙すら忘れ、揺れ荒れる馬車に突っ伏した。
 すべてが終わった。リリンにはもう、できることはなにもない。皆が慰めの言葉を懸命に探し見つけれぬ中、リリンは叫んだ。
「王狼、王狼がいる……行って、早く!」
 リリンはまだ、諦めていなかった。どれだけ細い可能性の糸でも、それを紐にも綱にも変えることができるとリリンは信じる。
「嬢ちゃん、気持ちはわかるがアルス殿はもう。どちらにしても、あの身体では……」
「アルスはもうすぐ、この世界から消えてなくなる。わかってる。でも、おじいちゃんが伯爵にしてあげたように、最期はあたしが抱きしめる。いま、そう決めたから」
 決然としたその言葉に反論はなく、馬車は向かった。王狼の倒れし場所へ。


 固く光る巨岩の塊。動かぬ王狼はそんな外観であった。リリン以外は、それでも近づけない雰囲気を保ってはいるが。
「王狼、しっかりして! 王狼!」
 生気を失った顔の前でリリンは、心の底から声を絞り出した。王狼の瞼がゆっくりと上がる。
「チビちゃんか」
「泣いてるの、王狼……?」
「僕は一体、なんのために生きてたんだろう。身体を硬く造りかえて、何千年も寂しく、みんなを守るためだからってずっと我慢してたのに、なんだったんだよ」
 滝としか言いようのない水の流れが、空近くから落ちる。
「それはだって、仕方ないじゃない。あんなにひどい目にあったら」
「僕はしない、できない! 殺されたってね。信じてたのに、友達だって思ってたのに。もういいよ、どうにでもなればいい」
 身体の傷以上に王狼の心は傷んでいた。
「甘えないの!」
 垂れた耳がぴくりと震えた。
「たった一回、自分の心が届かなかったからって、うじうじしてどうするのよ」
「僕が、間違ってるって言うのか……」
「そうじゃないわ。けど、だからって王狼が全部、正しいわけでもないの。王狼、あなたは優しいわ。優しすぎるぐらい。でもね、誰もが王狼みたいにはなれない。人間だって幻獣だって、心の弱さは同じ。みんなみんな王狼みたいになれたら、幸せだと思う。でもなれない! 求めちゃだめ。苦しくなるだけ」
「期待するなってこと?」
「傷つくのがいやならね」
「寂しいね、それ」
「そう思うなら許すの。もう一度、みんなを信じてあげて」
「だめだったら?」
「そのときは殴り返せばいいわ。黙って諦めるよりずっといい。殴りあってから始まる友情ってのも、素敵だと思うわよ」
 ふんっ、と王狼は鼻から笑いを吹き出すと、その身体を起こした。
「チビちゃんの言葉は不思議だな。なんだか、勇気が出てくるよ。みんな苦しんでる。僕が、行かないと」
「それでこそ王狼よ。アルスが飲まれたの、急いで」
「消えたんじゃなかったの? プルル・ファルのやつ、大袈裟に言ったな」
「ううん、もう……でも助けて、お願い!」
 飲まれたのか、と低く繰り返した王狼は難しい表情を浮かべ、幻獣の融合体を見た。
「なんで争ってるんだ? さっきと違う」
「どういうこと?」
「目覚めの光を放射したんだ、みんな元の姿に戻って、ばらばらに崩れて死ぬはずだった。でも、お互いに食い合ってた。みんなが納得ずくで、補い合って一つの命として生きるため、人間に復讐するためにね。だけどいまは、人間のために戦ってる幻獣がいる」
「あのなかには、この子のお母さんがいるの。あたし助けてもらった。その後すぐに、あんなふうにお互いを攻撃して」
 リリンは輝幻石を失いくぼんだ、左手の甲を王狼にかざした。
「それでか。いくら食い合っても、完全に一つになんてなれない。気持ちが一つだから、あの形でいられるんだ。それがいま、揺れてる。けど、このままじゃだめ。圧倒的に、人間を滅ぼそうって幻獣の心が多い」
「どうすればいいの?」
「殺すことは難しくないけど」
「アルスがいるのよ!」
「わかってる!! だから、それをいま考えてるんだ。なにか大きな力があれば、脆い連結を打ち砕く衝撃さえあれば」
 せわしなく宙をさまよう王狼の視線が、リリンに止まった。リリンの持つ輝幻石の剣に。
「あるじゃない! それだよ、その剣! それはあいつの母親の身体。世界中のどの幻獣より、人間を愛してる。揺れ動いてる心にその優しさが加われば、きっと!」
「優しさで?」
「みんなの心はいま、怒りに凍てついてる。凍ったまま、くっついてるんだ。心を溶かせば、自然に身体の融合も解けるよ。それに」
「それに、なに?」
「いや、黙っとく。うまくいかなかったとき、がっかりさせちゃうから。僕を信じて」
 迷いつつも、大きくうなずいたリリンを王狼は器用につまみ上げ、自分の頭に置いた。
「耳の中に隠れててね。僕が合図したら、その剣を思い切り投げるんだよ」
 わかった! 希望を取り戻しリリンは叫んだ。王狼の耳が、きーんと痛んだ。


 一飛びで王狼は、同士討ちを続ける幻獣の前に立った。すぐさま百単位もの触手が、その身体を絡め捕ろうと襲いかかる。
 王狼はその縛めを振り払う素振りも見せず、ただ受けた。前足、後ろ足、それに首。幾重にも触手が巻きつく。
「おとなしく、土に還ってくれないか」
 静かに王狼は口を開いた。
「小僧ガ、デカイ口ヲキクナ。貴様ノヨウナ不甲斐ナイ奴ヲ守護者ニ任ジタバカリニ、コノ有リ様ダ。人間ヲナゼ野放シニシタ?」
 その声というより耳障りな音は、大地深くから発せられているように感じられた。
「この星に新しい支配者が生まれれば、その種を滅ぼしてまで生きてはいけない。そう、決めたはずだ」
「タシカニソウダ。ダガソレハ、コノヨウナ下等生物ガ生マレルトハ、知ラナカッタトキノ話。人間ハ膿ダ。コノ星ガ吐キ出シタ汚物ナノダ! ソレヲ滅ボスハ、星ノ意志ニ沿ウ」
「星の意志は数千年前、我等の元にも伝えられた。あのとき、静かに滅びを待つべきだった。わかってくれ、みんな。僕も辛い、死ぬほど辛い!」
 途切れ途切れに、涙が聞こえた。
「ヤカマシイ! 星ハ我ガ物。我ガ意志スナワチ星ノ意志。王狼、貴様ニカワリ仲間ヲ守ル。死ネイッ!」
 岩でできた腕。刃のように鋭い爪。灼熱の吐息。ありとあらゆる攻撃が、王狼に向けて繰り出される。王狼はだが、動かない。瞳を閉じ、微動だにしない。いくら王狼でも、立て続けに受けて無事ですむほど生やさしい攻撃ではない。それでも、ただ耐える。
 皮膚は爆ぜ、真っ赤な血が至るところからこぼれる。比類なき王狼の装甲さえも、あと数刻も持ちはしない。
「王狼、反撃して。もうだめよ」
 リリンは鼓膜を直接涙声で揺らした。
「まだだよ。だって僕たちは……友達だから。思い出してくれるよ、きっと。そうだよね、みんな!!」
 口から血を吹き出してまで叫んだ王狼の心は,正しく報われた。とどめを刺さんと荒れ狂う容赦ない攻撃のどれもが、新しく融合体から現れた幻獣の技によって相殺されたのだ。
「ありがとう、みんな……ごめん」
 身体に巻きつく触手を弾き飛ばし、王狼は突っこんだ。鋭い牙が融合体の中央に噛みつくや、多くを食いちぎった。様々な色の液体が、血潮が吹き出した。
「チビちゃん投げろ!」
 王狼の左耳からリリンが躍り出る。しかし、リリンは投げない。王狼の眉間から鼻筋を駆け降りて助走をつけ、自らが剣と一体となり、一本の矢と化して飛ぶ方法を選んだ。
 紫の流星のごとく、剣とリリンは進む。まっすぐ、ただまっすぐ、遮りの魔手を寄せつける間もなく宙を駆ける。
 きらめく刃が融合体に突き刺さる直前、王狼の第三の目から放たれた光が剣を包んだ。美しい女性の頭髪がたなびいたような残光を引き、剣はなにかに形を変えつつ、幻獣の塊へと吸いこまれる。
 融合体に侵入した瞬間、リリンは見た。アルスの黒髪が懸命に生きようと、自らの身体に迫る様々な攻撃を打ち払っている姿を。
「アルス、まだ生きてる……」
 刹那、光が弾けた。太陽が破裂してもこんな強烈な光は生まれないだろうと、瞼を貫く光量の莫大さにくらみながらリリンは思った。
 長い長い光の散弾が収まると、静寂が訪れた。恐る恐る目を開いたリリンは同時に、落下の感覚に包まれた。


 融合体が崩れていく。雪のように、ぱらぱらと穏やかに、小さな小さなかけらとなって。
「タイラブ……!」
 遠巻きに見守っていたオフレイムは憎むべき仇の姿が、無意味に光る派手な服が落下するのを見つけて駆け寄った。
 そこかしこでまだ、幻獣の身体は不気味にうごめいていた。さしものオフレイムでもしばらくの間は、肉食を避けたくなる光景が広がっている。
 剣を抜いたオフレイムであったが、その剣が振られることはなかった。タイラブと魔道士たちには、数えきれないほどの幻獣が寄生していたのだ。生きているのか死んでいるのか、それさえもわからない。
 大きくため息をついたオフレイムの真横に、リリンが降ってきた。
「アルス、どこっ!」
 接地するやいなや、リリンは探した。大切な人をただ求めた。吐き気をもよおす光景も臭気も、リリンには感じられない。降り積もる幻獣を必死にかきわけ、祈りながらアルスを取り返すことしか頭にはない。最期を一緒に送りたいという気持ちしか。
 オフレイムもその鬼気せまる様子に気押され、言葉を出せない。
「あった……あった! アルス!」
 ついに見慣れた黒髪がリリンの手に握られた。歯を食いしばって、渾身の力で引き抜く。
「身体、残ってる……?」
 うつ伏せに現れたアルスの身体はなぜか通常、残っているどころではなく、半透明から完全に復活しているではないか。
「アルス、しっかりして。生きてるよね、ねえ返事して!」
 むき出しの背中に、平手が幾つも幾つも打ちつけられる。
「……ちったあお前、手加減しろよ」
 アルスが両腕を使い、身体を起こすか起こさないか、リリンは飛びついた。首に手を回し、顎を肩に乗せ、頬を合わせる。
「アルス、アルス……生きてる、身体もある。よかった、よかった……」
「そんな、泣くなよ」
 本当に困りきった顔で、アルスはどうにかつぶやいた。腕がゆっくりと、しゃくり上げる背中を抱きしめた。
「よかったね、チビちゃん」
 仲間の死に行く様を悲しそうに見つめていた王狼は大きくため息をつき、気を取り直すように二人に声をかけた。
 リリンは涙をこぼし続けるばかりであり、アルスだけが王狼を見上げて礼を口にした。
「手間かけたな、王狼」
「死ぬまで感謝の気持ちは忘れないでよね」
「けっ、調子に乗りやがって。だが、なんで俺の身体が戻ってんだ?」
 それが最も不思議なこと。アルスはもう、ほとんど身体をなくしていたというのに。
「君の大切な、母親のおかげだよ」
「なんだと?」
「言ったでしょ、あの剣は君の母親が身体を削ったものだって。わかりやすく言えばチビちゃんの手と同じ。寄生ってのとは、ちょっと意味合いが違うんだけど」
「じゃあ、この身体は……」
 アルスはリリンに回していた腕を外し、じっと見つめた。
「血の繋がった親子だから、ここまで再生できたんだよ。言ってみれば、二度も生んでもらった。感謝してもしたりないでしょ」
「あの、さあ……ちょっといいかな」
 不意にリリンが遠慮がちの声を上げた。
「なんだい、チビちゃん」
「さっきからね。胸の辺りに、なんか当たってるなーって、感じてたんだけど」
 リリンはゆっくりとアルスから身体をはがし、その違和感の正体を見てしまった。派手に唾を吹き出して、リリンは大爆笑。涙をそのままに、それでもケラケラと笑い転げる。
「なんだこりゃっ!?」
 アルスも自分の胸に視線を落とすなり、心底驚いた。情けない声を上げた。そこには紛れもない、大きな二つの膨らみが、女性の乳房がぶらさがっていたのだから。
「ぷぷっ、きゃはははははっ! ア、アルス、く、苦しいよ、おっかしいーっ!!」
「く、くそこりゃ……てめえ王狼、笑ってんじゃねえ! オフレイム殿もですか!」
 なにを叫んでも、この笑いの渦巻きからは当分抜け出せないはずであった。巨体を揺らして大きく笑う王狼がそのまま、血を吐いて倒れさえしなければ。
「王狼!?」
 リリンとアルス、叫びが重なる。倒れたことだけでも驚くに足ることだが、王狼の身体が犬の大きさにまで、見る間に縮小したのだ。
「あやうく、笑い死ぬとこだったよ。ちょっこっと、無理しすぎたかな」
「どうして! 王狼……縮んじゃってるよ」
「心配しなくてもいい。僕の命は終わらないんだ。歳を取るまで取ったら、若返る。いまは丁度、若返りのとき。心も若返るから、威厳もなくなっちゃってね」
 ぺろっと舌を出して王狼は力なく笑った。
「それで昨日より、小さく見えたんだな」
「そういうこと。それでチビちゃん、お願いがあるんだけど」
「なに、なんでも言って?」
「僕もしばらく、石になって眠らなきゃいけないんだ。でね、その間チビちゃんがなくした輝幻石のかわりに使って欲しいんだけど、いいかな?」
「それは構わない、ううん嬉しいぐらいよ。けど、ほんとに眠るだけなの?」
「もちろん。それに眠るったって、チビちゃんと心は交わせるし、すっごぐ役にも立つよ。お母さんのことも、任せ、て……」
 言葉の途中で王狼の身体は、まばゆい輝きを放ちながらさらに縮小、徐々に石へと姿を変えて行った。
「おやすみ、王狼。……ありがと」
 リリンは森海の緑をそのまま映した、深色の石をそっと拾い上げると、左手にはめこんだ。陽光を弾いたわけでもないのにその緑石は、きらりと輝いた。


 リリンたちは総出で大きな墓穴を掘り、幻獣の骸を丁重に葬った。寄生され、植物状態に近いタイラブたちは商国の要求がなければこのまま、オフレイムが責任を持って、身柄を預かることになった。
「ふうっ、疲れたわね、アリス」
「俺はアルスだ」
「そんな立派な胸してるんだから、いいじゃないアリスで」
「よくねえよ……」
「アリス、大きな胸の女の人が好きだったわよね。ぴったりじゃない、ねっ」
 笑い声こそなかったが、リリンの瞳は激しく笑っていた。
「くっそー、なんでこんな余計なものが」
 幸いといえるかどうかは微妙なところだが、身体の変化は胸の女性化のみ。顔立ちも筋肉も、もちろん男性機能もそのままであった。
「お母さんのこと恨んでた、天罰ね。ゆっくり頭冷やして、母性本能でも養いなさい」
 ついにリリンはこらえ切れず、笑いを吹き出し、これより上はない笑顔でアルスの渋面を見上げた。
「あたしも母さんに会いたくなっちやった」
「オフレイム殿に挨拶したら、出発するか」
「ついてきてくれる?」
「この胸で戻れると思うか。王狼が目覚ましたら、なんとしても身体取り戻してやる!」
「じゃっ、これからもよろしくお願いね、ア・リ・スちゃんっ!」
 いいようにからかわれるアルスは、舌打ちながら空を見るしかできなかった。その手をそっと、リリンが握る。
「ねえ、アルス」
「なんだよ、まだからかい足りないのか?」
「胸ついてても……いいよ。一緒に、いられるんだから。アルスが生きててくれたんだから。そんなの全然、どうでもいいよ」
「……ああ。リリンがいいって言うのな――」
「隙ありっ! いやん、柔らかーい!」
「お前なあっ!」
 アルスのたおやかな胸を、リリンの左手が悪戯っぽく撫でた。
「もう一回触らせて。ね、ねっ」
「いいかげんにせんとしばくぞ!」
「しばいてから言わないでよ!」
 二人の真上にある雲のなかでは双頭の鳥が顔を見合わせ、声を出して笑っていた。


                      end(あとがきあります)