第五章 頬に夏の光が触れ、その熱が徐々に睡魔を焼き払う。わずかずつ覚醒していくリリンの耳に 小鳥のさえずりが痛いぐらいに響く。 「ん、うるさい……」 「いい加減、起きて欲しいんだけどー」 「やめてよアルス。まだ眠いの」 頬を軽く引っかく、くすぐったい感触はそれでも止まってくれない。 「やめてってば……痛っ」 振り払おうと動かした腕が固く大きな感触にぶつかった。ごつごつとした岩を叩いてしまったような、鈍い痛みが手に残る。 なんだろいまの? 干し草にまとわりついた、太陽の匂いを感じながらまどろむリリンの、絡まっていた記憶の整理が始まる。 ステラマリス。あの冷血女、今度会ったら絶対に引っぱたいてやる。 蜥蜴の鎧獣。アルス強かったな。髪の毛動くのにはびっくりしたもん。 娼婦。ふんだ年増のくせに。それから、 「王狼!」 王狼の渾身の一撃を――リリンの感覚としては――受けて気を失って、そのあとは? 「呼んだ?」 ぬっと巨大な鼻先が寝転んだままのリリンに近づいた。 わけのわからないほどの絶叫。王狼の背で羽を繕っていた小鳥が一斉に飛び立った。 「やっかましいなー」 言いながら王狼は器用に前足を使い、ぴんと尖り発つ耳をふさいだ。 「な、な、な、なんでっ! アル、アルス!」 「男なら横に寝てる」 呼吸による、わずかな背中の上下動以外、命の確認が不可能なほど深い眠りに、アルスは陥っていた。取り敢えずの安堵を目元に浮かべてリリンは、まさに山を彷彿とさせる巨大な仇敵に向き直った。恐怖を押し退けた怒りが、リリンの身体を動かした。 太陽の下でまじまじと見つめるとその姿は、大体において狼には違いないが、シャープな直線が目立つ。鎧獣の名の通り、硬い輝きを放つ銀の表皮が装甲のように隙なく、全身を覆っていることは言うまでもない。 「こんなとこに運んできて、どうするつもりよ? 弄んでから、食べようっての」 「食べていいの? 痛いよ」 くわっと、真っ白な牙の列がむき出される。 「誰が黙って死んでやるもんですか!」 開かれた口の奥、柔らかにうごめく喉めがけ、リリンは左腕を突き出した。 「なんでなのよ……?」 しかしというかやはりというべきか、手からは煙さえ立ち昇りはしなかった。 「鎧獣相手に、その石を使った魔法は無意味だってわかってないの?」 「大事なときに役立たず!」 言うことを聞かなくなった腕をリリンは何度も叩いた。涙が溢れる、痛みではない。 「そんなに自分の手、叩くもんじゃないよ」 「こんなの、こんなのほんとのあたしの手じゃない! 殺しなさいよ、さあ!」 「ここは森海の最深部なんだ。静かでいいところだとは思わないかい? こんな気持ちいい場所に、やかましい餌を運ぶのは無粋だよ」 「さっさと殺して!」 「話を聞かないチビちゃんだな。そっちの男、起きてるのはわかってるよ。この子とは落ち着いて話ができない、かわってくれないか」 わずかに間を置いて、身体についた干し草を払い落としながらアルスは上半身を起こした。眠ったふりをして隙をうかがっていたようだが、王狼のほうが上手だった。 「助けられたようだな。どういう気まぐれだ、王狼?」 「普通の人間なら、もちろん殺してるよ。森海に入るほうが悪いんだから。だけど、仲間の姿を見せられちゃ、そういうわけにもいかなくてね」 威容を誇る姿からはほど遠い口調で答えつつ、王狼はリリンの腕を爪で差した。 「これのことね」 「なにが仲間よ! これはあんたが呪ったせいでしょ。こんな、不気味がられる腕にされて……母さんも!」 「呪いじゃないよ」 寂しそうなつぶやきであった。とはいえ、身体が身体なだけに、到底つぶやきとは思えぬ音量ではあったが。 「じゃあこれ、なんだってのよ!」 「そんなに叫ぶと喉が乾くだろ。果物でも食べて、落ち着くといい。チビちゃん、君の質問に答えるには、順を追って話す必要があるんだ。静かに聞くかい?」 「聞きたくな……もごがごっ!」 聞く耳など持ちそうにないリリンの口に王狼は、長い爪をナイフがわりにしてむいたオレンジを、丸々一つ放りこんで黙らせた。 「人間が輝幻石と呼ぶ鉱石。あれはなんだと思う?」 アルスが疑問視したことと同一の問いかけが王狼からなされた。 「輝幻石は輝幻石よ!」 口の周りを甘い果汁でべとべとにしながら、リリンはなおも食ってかかる。 「リリン、やめるんだ」 つかみかからんばかりに興奮するリリンの細い腹部に、アルスは黒髪を巻きつけた。リリンの暴走を、なんとしても止めようという構えである。とぼけてはいても、相手は王狼。下手に突っかかって怒りを呼べば、ひとたまりもない。 うーっ、と不服の唸りを漏らすリリンも、アルスの強い眼差しには逆らえず、渋々ながら立ち上がることをやめた。 「王狼、その答えは俺たちも考えたがわからなかった。ただ、なんとなく命の温かみを感じる。それだけしかな」 「だろうね。君たち二人になら感じ取れるはずだから。昔、それは、人間がこの世界に生まれい出るより、遥かに古く遡った時代のことだったんだ」 王狼は犬でいうところの、お座りの体勢から、伏せの状態へと移行した。金色の視線を小さな人間と合わせやすくするためである。それでも二人の首は、痛くなる角度まで上げるしかないのだが。 「その頃この星には僕たちが、人間とは別の種族が繁栄していた。それはもう、いっぱいね。幻のように美しいもの。炎のように強いもの。海のように優しいもの。ほんとにたくさんいたんだ。お腹、空かないかい?」 「余計な気なんて回さなくいいわ」 「わかった。だけどあるとき、空からたくさんの真っ赤に焼けただれた石が降ってきたんだ。緑の楽園だったこの星が面影さえなくしてしまうほど、嵐のように激しくね」 そこまで言って王狼は極彩色の果物を数個まとめて口に入れ、ゆっくりと噛みしだいた。 「そのとき一緒に死んでればよかったのよ」 リリンは一息に吐き捨てる。 「ひっどいこと言うなー」 「だってそうじゃない。あんたさえいなければ……みんな幸せに暮らしてたのに」 「チビちゃんの言うみんなは人間のことだけ。この星に住んでる他の命のことなんて、なにひとつ考えてやしない。もういいよ」 腹立ちの言葉を投げたわりに王狼はそこから動こうとはせず、ただ顔を背けた。 アルスは肘でリリンの脇腹をつつき、たしなめの視線を向けた。 「悪かったわよ。続き、話せば」 精一杯、心を妥協させたつぶやきに、王狼の機嫌はたちまち戻った。 「それでね、住むところも食べ物もなくなって、みんな困ったんだ」 「そりゃ困るでしょうよ」 「かといって、黙って滅びるほど僕たちも悟りきってはないわけで。だから、眠ることにしたんだ」 「眠る?」 「人間の魂って、どんな形や色をしてるんだろうね。どう思う?」 「いきなり話、すっ飛ばさないでよ。眠るってどういうことなの?」 「汚れてるんだろうな。形だっていびつで、欠けてたり傷だらけだったりするんだろうね」 王狼は勝手に言葉を並べた。そして首を大きく左右させ、やはり大きなため息をついた。 「僕の仲間だった妖精や魔獣は、まとめて幻獣って人間は呼ぶんだよね、あんな綺麗な石になった。すごいよね、そう思わないかい?」 「なんですって!?」 リリンは手袋を投げ外し、紅く輝く輝幻石を見つめた。アルスはアルスで剣を抜く。 「これが幻獣……じゃあ、魔法が使えなかったのは」 「友達を傷つけること、しないよね。どんな姿になったって僕たちは友達だから」 王狼の瞳は嬉しそうに、しかし、その何倍も悲しそうにリリンの輝幻石を見つめた。 「本当にひどい状況だった。森は炎と煙に舐め尽くされて、海まで干上がったんだよ。とてもじゃないけど、あの世界で生きるのは無理だった。だから石に姿を変えて、命の進行を止めたんだ」 「それが輝幻石なのね。けど、そんな長い間眠り続けなくたって」 「うん。三百年もすれば、またみんなと一緒に暮らせるはずだった。だけど、大きな誤算があってね。安全だと思ってた地中も隕石の落下で目覚めてたんだ。せっかく結晶化して土に避難した仲間たちの身体も、大きな地震や地殻変動には勝てなくてバラバラに砕けた。砕けたってよりは剥離ってのかな。とにかくそのせいで、目覚めることができなくなったんだ」 「身体がバラバラになって、死なないの?」 「石でいる間はね。それに、離ればなれになった部分もお互いに引き合って、いつかはくっつくんだ。そうだな、あと千年もすれば」 「千年……」 想像もつかないほどの時間をさらりと口にされ、リリンは思わず嘆息を漏らした。 「だけど、そう悠長なことも言ってられなくなった。人間が輝幻石を飾りに使うぐらいは許したよ。だけど、自分たちが楽な生活をするために大切な仲間の命を奪うなんて」 「けど、輝幻石の正体がおとぎ話に出てくる妖精たち、幻獣だなんて知らないんだし。知ってたらこんなこと」 「しないとでもいうのかい。嘘だ。人間はね、自分さえよければそれでいいんだ。便利な生活を捨てるもんか」 リリンは言い返せなかった。たしかにいまさら、ろうそくだけの生活に戻れと言われれば躊躇すると思った。 「輝幻石が大切な仲間だってことはわかった。なら、この腕はどういうことなの? これ幻獣の腕でしょ。それがどうしてあたしに」 「チビちゃんを巻き添えにしたのは悪かったと思う」 王狼はリリンの腕にそっと爪の先を置いた。 「僕の額には、ほら、いまは閉じてるけど、もう一つ目があるだろ。この目で見ると、輝幻石は目覚める。君の腕は目覚めた仲間が行き場をなくして、寄生したものなんだ」 「寄生……」 「しょうがないんだよ、腕だけでは生きられないから。君はそのときたぶん、輝幻石の指輪をしてたと思う」 「ええ、してたわ。初めて輝幻石の取引に連れて行ってもらって、初めてのパーティーにおめかしして……どうして、どうしてあたしの大切なもの壊したのよ!」 どうしようもない感情が拳を握らせて、虚空を殴りつけた。 「警告だったんだ。これ以上、仲間を汚されないようにするための。けどね、僕だって辛かった。君が母親を愛しているように、僕だって同じ。愛する仲間をたくさん殺すことになるって、わかってやったんだから。やらなければ、いけなかったんだから……」 「同じですって、ふざけないで! そりゃ、苦しかったでしょうよ。でもね、自分から崖に飛びこむのと、突き落とされるんじゃ大違いよ。あたしはみんなの仇を討つために、王狼って化け物を殺す!」 「……ごめん。ほんとに、ごめん。でも僕は、まだ死ねない。もう、何千年もひとりぼっちだけど、まだ死ねないんだ。守らないと、友達を守らないといけないから。みんなを目覚めさせるまでは、なにがあったって」 「ひとりぼっち?」 「ほかにも鎧獣はいる。そう思ったでしょ。でも、あいつらと僕は話しもできない。僕たちが幻獣なら、あいつらはほんとにただの鎧獣。心まで硬いんだ。護衛のためだけに造られたんだから、それでいいんだけど」 「王狼」 黙りこくっていたアルスが、ようやく口を開いた。 「なんだい?」 「どうして憎い人間を滅ぼさない? お前なら、わけないだろ」 「その気になれば、三日もかからないかな。でも、人間が溶かしたほとんどは小さな小さな、砂みたいな粒だろ。あれは翅や角が折れたりはがれたりしたかけらだから、どうにか再生できる。だから、まだ許せるんだよ」 まだ許せる。それは、いつまでも黙ってはいないという、暗示でもあるのか。 「それにそんなことしたら、みんなが起きたとき、こっぴどく叱られる。滅びるのは順番からしても、幻獣のほうが先でしょ。その流れに逆らってまで、僕たちは生きなくていいんだ。そっとしておいてくれれば、僕はなにもしないよ。それでね、チビちゃん」 「なに……?」 「その腕、あんまり嫌わないで欲しいんだ。ほんとに偶然、君は助かった。ネックレスやピアスだったら、脳に寄生されて死んでたかもしれない」 「助かったから喜べってでも言うの。ふざけないで!」 「でも、腕のほうはチビちゃんを気に入ってるんだ。言うこと聞かなかったり、君を傷つけたりしたことはないよね」 「……自分の腕と同じ」 「だよね。他の人間のことを思い出してくれたらわかると思うけど、寄生した部分はそれ自体が勝手な行動をする。ときには、自分も死ぬとわかってて宿主を殺す。とっても珍しいんだ、こんなに同化してるのは」 「…………」 「チビちゃんは多分、人間なんかおよびもつかないほど素早く動けるはず。それも全部、その仲間の力なんだよ。便利だよね、すごく役に立つよね、だから」 「だからなに? あたしは普通の女の子で、ううん、普通の女の子が……よかった。優しくて素敵な人と恋して結婚して、母さんを早くおばあちゃんにしてあげるって、いつも言ってたのに……。この腕があたしを幸せにしてくれた? してくれてなんかないっ!」 慟哭にも似た叫びを聞いた王狼の耳は、ふにゃりと垂れた。沈んだ心を素直に表しているように見えた。 「チビちゃんが欲しい幸せには、邪魔なだけみたいだね。無理矢理だけど、取ろうか?」 「取れるの!?」 「腕だからなんとかね。そのかわり、戻った腕は麻痺したみたいに動きにくくなるよ。穏やかな生活を送るなら問題ないと思うけど」 「寄生した幻獣は死んじゃうのよね」 「気にしなくていい。幻獣と人間とは、相容れない存在なんだから」 淡々とこぼす王狼の額、第三の瞳が開こうとした直前、リリンはうつむいたまま叫んだ。 「ちょっと待って! 首の、首の幻獣は取れないの? あたしの母さん、首から翼が生えてて、ずっと眠ったままなの。あたし、どうしても母さん助けたい。恩返ししたい」 「首は僕でも無理。取った瞬間に、どっちも死んじゃう。別の方法でないと」 「別の方法あるの?」 「可能性がないわけじゃない。そんなレベルだけど」 「それでもいい、教えて! ほんとはあたし、この腕嫌いじゃないの。この子のほんとの姿はどんなだか知らないけど、殺すなんてできない。あたしでいいんなら、いつまでもいてくれたって」 「ほんとかい! よかったー。チビちゃんの手の輝幻石も喜んでるよ。ほら、光ってる」 まるで蛍のように優しい瞬きが、数度繰り返された。 「この輝幻石、とっても優しい気がする」 「その石は腕の母親だからね。自分の娘を、もちろんチビちゃんのことも、とっても心配してる。懸命に守ろうとしてる」 大きく見開いた目に優しい驚きを溜めてリリンは、胸に押しつけた手を身体を二つに折るようにして包みこんだ。それを見た王狼は、とても嬉しそうにうなずいた。 「で、首から幻獣を外す方法なんだけど、見つけるしかないんだ。石になった他の身体の部分を。全部集めて目覚めさせれば、宿り主から自然に自分の身体に移る」 「ってことは、もし、輝幻石が一つでもなくなってたら……」 「その場合は残念だけど」 この世のなかに、いくつの輝幻石があるのかわからない。その内のいくつが人間の手によって、すでに消費されたのかも。 「泣いたりして悲しい? 無理だと思った?」 「ううん、嬉しいの。諦めなくて、よかった」 リリンという少女は前を向くことを知っている。光しか、見ることを知らない。 「けど、どうやって探せばいいの?」 「蘇った身体は他の部分を呼び続ける。僕がその声を聞いて上げるよ。でも、すぐには無理。近い内にプルル・ファルに教えておくね」 「わかった。お願いね、絶対よ」 安堵の頬笑みを浮かべるリリンの傍らで、聞き役に徹していたアルスが眉根を寄せた。 「王狼、プルル・ファルを知ってるのか?」 「もちろん。彼女たちは運良く堅い地殻で眠っていたから身体が崩れなくて、早くに目覚めることができたんだ。君の母親も同じ。数少ない、蘇った幻獣さ。半分以上仲間の血が流れてるんだから、殺すわけにはいかないよ」 アルスは驚きもせずに静かに息を吐いた。予想と同じ、そういう顔をして。 「リリンのついでに助けられたわけじゃないか。化け物から生まれて、初めて得したな」 「そういう言いかたはよくない。君の母親は、それは綺麗な娘だった。君が生まれたときは本当に喜んでね。僕にまで、何度も見せに来てくれたんだ。覚えてないかな。まだ、こんなに生意気じゃなかったし」 「ほっとけ」 「ま、僕もすっかり忘れてて、ぶん殴っちゃったけどね。その長い髪、そっくりだよ」 「知らんな。便利だから俺はただ」 「嘘つくの下手だねえ。化け物って呼ばれるのが嫌なら、髪の毛短くして動かさなきゃいいだけでしょ」 「でもさ、アルスは三本も剣振り回すんだから、この髪の毛は必要よ。風車の理論だったわよね、たしか」 いまだ自分を縛る黒髪を見つつ、リリンは王狼に反論を告げた。 「よく考えてみて、チビちゃん。どうして陽炎に、そんなものすごい剣術が必要なんだい。姿を消せば剣、持って歩けさえしないんだよ」 「あ、そっか」 「母親を愛している。だから、母親を思い出させる髪は切れない」 「黙れっ!」 「黙らないよ。君は母親を探すために、風車の理論を身につけたんだよね。世界中を探して歩くために」 「それ以上喋りやがったら、舌切り裂くぞ!」 図星を突かれた狼狽からか、アルスは剣をすべて抜き放った。 「おおっと、わかったよ。黙る、黙るから。君には世話になってるしね」 「なんだと?」 「陽炎には、僕たちを脅かしそうな危険人物を殺してもらってるんだ。僕が出て行くと目立つから。あ、これ内緒ね」 「はっ、知らないうちに俺はお前の手先か」 「あ、気に障った?」 「べつに。金さえもらえば問題ない」 「その冷たい言い方は、怒ってる……」 「怒ってなんかないよね、アルス。もともと、こういうぶっきらぼうな性格だし」 「まあな。だが王狼。お前もっと、その図体なりの威厳というか、拍子抜けしたぞ俺は」 「き、気にしてることを……」 「でかいだけの犬だな、これじゃ」 「い、犬って言ったな!」 ついに、王狼の怒りが露にっ! ……なりはしなかった。 「あーあ、泣かしちゃった」 「泣くなよ……」 ぼろぼろ涙を流す王狼を見て二人は、漠然と抱いていた感慨を深くした。 イメージと違いすぎる、と。 「それはさておいて、ささ、食べて食べて」 早い立ち直りを見せた王狼は果物を勧めつつ、なにやらもの言いたそうな顔をした。 「なに? そんな気をつかわなくたって、言いたいことあるなら言っていいのよ」 「その、お願いがあるんだけどさ」 「お願い?」 「うん。僕の言葉を人間に伝えて欲しいんだ。無駄だとは思う。だけど、こういうことだけはもう、しないでって言って欲しいんだ」 そう言った王狼は魔道師が持たされていた、七色に輝く輝幻石を取り出した。 「かわいそうに、無理矢理こんな姿にされて。こうなったらもう、元には戻れない。永遠に、この星が砕け散るまで眠り続けるしかない。目覚めさせても、すぐに死んでしまうからね」 大きな手のひらで優しく転がしながら王狼はまた二粒、涙を落とした。 「わかったわ。あたしたちになにができるかはわからないけど、やってみる」 「よかった、ほんとに頼むよ。どうせ僕には通用しないんだし。それと、人間の世界にはもう、ほとんど仲間は残ってないってことも言っといてね。残りはここに、王狼が命懸けで守っている森海にある。無駄な血をこれ以上流すなって」 「うん。そうとなったら早く帰らないと」 「途中まで送ってくよ。紅い石は大切にしてよね」 「もちろん。けど、さすがに王狼ね。輝幻石の気持ちがわかるなんて」 「友達だから当然でしょ。喜びも悲しみも、全部感じることができる。どんなに遠くにいたってね。それと、男の剣。それも同じ。君を守るためにだけにあるんだよ。その剣は、幻獣が自分の身体を削って作ったものだから」 「削っただと?」 「誰の身体かは、言わなくてもわかるよね?」 「……急ごう」 立ち上がりながら背を向けたアルスを見て王狼は、リリンの肩をつついた。そして、大きな手をリリンの耳に、というより顔全体にかぶせ近づけ、内緒話のような格好をした。 「素直じゃないよね、あいつ。屈折したマザコンほど手に負えないものはないよ。惚れたら苦労する。やめといたほうがいい」 とてもではないが、内緒話にふさわしい声ではなかった。 「誰がマザコンだ、このくそ犬!」 「犬じゃないってば!」 「誰も惚れてなんてないわよ!」 静かなはずの森海の奥に、三種ものけたたましい騒音が響き渡った。枝に止まる小鳥たちは不思議そうに首をかしげて、いずこともへなく飛び立った。 「さっきから、なに考えこんでるの?」 人目に触れぬ限界まで、王狼は二人を背に乗せて運んだ。ここからならば街までは徒歩でも、夜を待たないうちに到着できる。 王狼に別れを告げ――正確には憎まれ口を叩き合ったのを最後にアルスは、随分と長い間、一言も口をきこうとしなかった。 「当てよっか?」 「いらん。俺は、半仮面卿と商国を止める術を考えていただけだ。レッドベリルは俺が殺る。だが、問題は商国のほうだ」 「商国って言うか、便利な生活に慣れた人間かしらね。戻れると思う?」 アルスはすぐさま首を左右させた。 「だが、なくなればそれまでさ。あのくそ犬の言葉が本当なら、輝幻石はもうすぐ人間の元から消える。森海にあいつがいる限り、手は出せん」 「まあね。アルスだって一撃でのされちゃったし」 「む……」 「風車の理論はどうしたのかしらねー?」 意地悪な瞳が、むっつりと押し黙った顔を見上げた。 「風車だって、風が強すぎりゃぶっ壊れる」 「あはは、それもそっか。でも、おかしなやつよね、王狼って」 「まったくだ。俺が小さい頃見た王狼は、人など寄せつけん迫力があったんだが。見間違いとしか思えなくなった」 「何千年も生きてきて、いい加減丸くなったんじゃないの。身体はかくかくだったけど」 「かもな。しかし、むかつくやつだ。二度と会いに来るなだとよ」 別れぎわ王狼は言った。二度と森海には立ち入らないように。誰であろうと、次は許さないと。 「でも、寂しそうだった」 「あいつ、随分と人間に歩み寄ってると思う。あんな懐かしそうな目で、友達友達って言いやがるくせに。俺がもし、仲間を輝幻石と同じように扱われたら、なにがあっても……」 「うん、わかる。王狼、ほんとに優しいんだよね。優しいから寂しがり屋で」 「いい歳のくせしやがって、ガキみたいなやつだからな。会いに行けって、プルル・ファルに言っといてやるかな」 「そうしてあげてよ」 「ああ。それはいいとして、リリン。足引きずってるみたいだが、だいじょうぶか?」 「痛くて死んじゃいそう……って言ったら、おんぶしてくれる?」 「ったく、楽しようとばっか思いやがって」 「うーん、ケチケチしないで。ねえったらー。お・ね・が・いっ」 「だめだ。甘やかすと癖になる」 「ぶーっ。ん、アルス、あれ」 視界の遥か先、黄色がかった砂塵を巻き上げて、数台の馬車が全力で走る来るのが見えた。そのスピードは狂わんばかりのもので、あっという間に二人の近くにまで迫った。 「救出の援軍、にしては数が少ないな。ちっ、またあのでかぶつがいやがる」 輝幻石により改造された狂戦士が、荷台に溢れんばかりに乗っている。 「おじいちゃんの言葉、届いてなさそうね」 翼をつければ、空さえ駆けんばかりの勢いで通りすぎたかと思いきや、馬車は滑るようにしながらも馬首を翻した。なかから現れ出たのは商国大使、タイラブであった。 「ご無事でしたか。おや、その腕は。ふむ、あばずれどもの言葉は本当らしいですな」 「これは……」 逃げ場を探すリリンの腕をアルスが握りとどめた。 「隠す必要はない。お急ぎでどこへおいでですかな、タイラブ殿? よもや直々に、負傷者の救出を指揮されるわけもないでしょうが」 「誰も生きていない。そう考えておりましたからな。私は魔道師どもに貸し与えた、輝幻石を回収に行くだけです。あれだけのものをむざむざと置き去りにするわけにはいきますまい。森海などに足を踏み入れたくはありませんが、他の者では信用なりませんからな」 「なるほど。小者の俗物らしい考えだな。命はどうでもいいか」 「これはなかなか、手厳しいご意見ですな。耳が痛い気もしますが、その通りだ、偽の令嬢とその従者」 いかにも人のよさそうな微笑は掻き消え、爬虫類のように冷淡な瞳が、目尻の笑い皺だけはそのままの顔面で大きく開いた。 「ふん、偽善者よりはましさ」 「それにね、いまさら行っても無駄なんだから。輝幻石は王狼が、みんな持ってったわ」 「王狼がだと?」 「そうよ。王狼にも鎧獣にも、輝幻石は通用しないのよ。地下にあんな、ばかみたいに大きな輝幻石作ったって、意味ないんだから!」 「ほう、あれの存在まで知られていては、見逃すわけにはいかんな」 「あっ……」 怒り、そして嫌悪感という潤滑油がリリンの口を滑らせた。黒い狂戦士がタイラブの口笛に応じて、二人を隙間なく囲んだ。 「まあ待て、タイラブ。俺たちは逃げはしない。話しておきたいことがあるんでな。輝幻石に関する情報、聞く価値はあると思うが」 タイラブは探るような目つきで、リリンとアルスを交互に見やった。 「よかろう。ただし馬鹿なまねはするな。オフレイムの身柄を預かってるということを、教えておいてやる」 「おじいちゃんを! 卑怯者!」 負傷した人質を取られていては、思い切った行動など取れるはずがない。喉元に、ナイフを突きつけられているようなものである。 「卑怯。いい響きですな、化け物小娘」 挑発に乗り、殴りかかろうとしたリリンの動きをアルスが腕と視線で封じた。 「金の勘定だけはできても、他はからっきしだな三流商人。切り札は、見せびらかすもんじゃねえんだよ」 「……いまのうちに、せいぜい吠えるがいい」 「罠にかかりに行くようなものよ、アルス」 「わかってるさ。だが、オフレイム殿を見殺しにはできん。いざってときは助けてくれよ。こんな腐った風が相手じゃ」 アルスは、まぶしそうに真っ青な空を見上げて言葉を続けた。 「自分の身だって、守るのは骨だからな」 二人が連行されたのは古城の外観を見せる、あの研究所であった。それも、夜会が催された、だだっ広いホールに。 「用心深いことだ」 ホール中央、長テーブルの上には強い香りが漂う巨大な花瓶を食器が囲むように並んでいる。席につくとアルスは、首を鳴らしながら周囲を見回した。 幾重もの人の網が厳しく、それこそネズミ一匹逃がすまいと包囲を固めている。上に視線を移せば、屋根へと身を置いた弓箭隊が出窓から、慎重に照準を合わせる姿が目に飛びこむ。二人とタイラブとの位置関係は、テーブルの端と端。タイラブからすれば、突然剣を振るわれても到底届かない安全地帯に、如才なく位置取ったわけである。 「腹も空いていることだろう。食べながら話をしようじゃないか」 「ふん、味付けはなによ。毒、それとも眠り薬。誰が食べるもんですか」 「そんな小細工はせん。疑いがかからんよう、料理はすべて大皿に盛らした。わたしも食べるんだ。ほら、心配はいらんよ」 タイラブは給仕に十幾つもの皿をいちいちかき混ぜさせ、そのすべてを口に運んだ。 「アルス?」 アルスは含んだ水を飲みこみ、リリンに向けてうなずいた。リリンは仇とばかりに、豪快にフォークを動かした。 「王狼に殺されたとばかり思っていたよ」 「丁重に扱ってもらったんでな。お前より王狼は、ずっとましな存在だ」 「こんなのと比べちゃ、王狼に悪いわよ」 「化け物同士、気でもあったか。まあいい、輝幻石が王狼や鎧獣に通用しないというのはなぜだ。教えてもらおう」 「言って信じるかは、そっちの勝手だが」 「信じないと思うわよ。だって、こいつに友達がいるとは思えないし」 アルスとリリン、息の合った口撃が連なる。 「意味がわからんな。役にも立たん友情ごっこに興味がないのは当たっているが」 「輝幻石はね、王狼の仲間が形を変えたものなのよ。命の塊なの。人間が好き勝手に、汚れた手で触っちゃいけない存在なの」 「お前には理解できんだろうが、輝幻石は生きてるのさ。仲間である王狼を傷つけるなんてことは、自分の意思で拒否する。だから、地下にある輝幻石は無意味な代物だ」 「輝幻石に感情や意思がある、なるほど。では、あの役立たずで場所を取るだけの輝幻石は、一思いに魔力抽出溶液に放りこみますか」 「ばっかじゃないの!」 オレンジの種をタイラブにぶつけんとばかりに吹き出して、リリンは怒鳴りつけた。 「なんにもわかってないのね。輝幻石と王狼は心で通じ合ってるんだから。いくら王狼が優しくたって、これ以上仲間が殺されるの、黙って見てなんかないわよ!」 「輝幻石が化け物の変化した姿だということなど、とっくに承知」 「なんですって!?」 「問題は、どうやって王狼をおびき出すかだったが答えは見つかった。殺れっ!」 号令同時、矢の雨が振る。 その豪雨を斬り裂く、アルスの三本の剣。髪の毛が剣を握り動くのに度肝を抜かれたのか、一瞬の半分、攻撃がやんだ。 「リリン、派手にぶっ放してやれ!」 「手加減するもんですか!」 しかし、大きく振り上げられた左腕は沈黙を保ったまま。リリンの命令を無視するように、ぴくりとも動かない。 「ふはははっ! しょせん、輝幻石は魔力の増幅をするもの。ならば、お前自身の魔力を奪えば役に立つわけがないのだよ」 「まさか食事に!」 「いくら無害でも、私はそんなものを食べはしない。その花に仕組んだんだよ。もう遅い」 慌てて口と鼻を押さえるリリンに、タイラブは勝ち誇った笑いを向けた。 「とある貴族が、生意気な女魔道士をものにするため、開発を依頼してきた薬の試作品だ。小細工ではなく、中細工とでも言っておこうか。女は生け捕れ。あとでじっくりと楽しませてもらうからな」 下劣な命令を実行に移すべく、兵士たちは包囲を詰める。 「俺が突っこむ。その隙に天窓まで跳べ。俺を踏み台にすれば飛べん高さではないはずだ」 「アルスは?」 「任せろ。ひとりなら、どうとでもなる。弱い風でも数があるしな。だが、とてもじゃないがリリンまで手は回らない。あの洞窟で待っていてくれ。必ず行く」 ぎゅっと唇を噛んで、リリンはうなずいた。 「右手で三度剣を振るったら、来い。容赦なく踏みつけろ」 言うが早いか、低い体勢でアルスは大軍の中に身を進めた。髪で振り回す剣に恐れをなしてか、なかなか剣は合わさらない。 「行け、殺せ! 見事打ち倒した者にはこの輝幻石、すべてくれてやるぞ」 ごてごてと飾りつけられた指輪を餌に、タイラブは士気の向上をはかった。 「やめておけ」 アルスの剣が一閃、真っ先に斬りかかった欲狂いを打ち倒した。 「命を落として、輝幻石もなにもないぞ」 しかし、そんな言葉に耳を貸す者はわずかもいなかった。一刀の下に斬り伏せたとはいえ、アルスの剣勢には敵を恐れ縮み上がらせるまでの威力はなかったのだ。 何合も、打ち合ってこその風車の理論。相手の力を利用しないアルスの剣術は、せいぜい中の上でしかない。すぐさま何本もの剣が、アルスの命を狩り獲らんと構えを取る。 「行くぞ!」 大股で踏みこんだアルスの右手が、大きく大気を裂く。隙だらけの大振りな斬撃ではあったが、まともに打ち合うには危険な動き。 なにより、こんな力任せの攻撃が続くことはないと、兵士たちは知っている。 疲れるまで待てばいい。そんな雰囲気が漂った。アルスはしかし、バランスさえ崩すその攻撃を続けた。割れるように道ができる。リリンを逃がすための、助走路が。 「いまだ、来いっ!」 ぎゅっとつむった目を見開き、リリンは走った。ほんの数歩の助走でそのスピードは最速点に到達。アルスの背中を踏んで、リリンは跳んだ。 「んくっ!」 かすかながら、しかしアルスの耳には苦痛の呻きが、リリンが痛みを訴える、悲鳴にも似た音が入りこんだ。 「リリン!?」 それでも、リリンは跳んだ。高い高い天上の先。まばゆく輝く太陽を取りこむ天窓に、必死に指が伸ばされる。 「きゃーっ!」 だが、翼持たぬ身には限界がある。本当にわずかの差で、リリンは重力に押し戻された。 「リリンっ! どけくそっ!」 リリンの落下は森海で負った、足の怪我によるものだった。強がってはいたものの、捻った足首は倍近くまで腫れており、跳躍力を削ぎ取っていたのだ。 アルスは歯ぎしった。どうしてリリンの怪我に思いが及ばなかったのか。おどけて見せて本当は、歩くのさえ辛かったことに、どうして気づいてやれなかったのか。 「リリンっ!!」 アルスは全力で剣を振るった。死ぬ思いで身につけた風車の理論を、受けることすらも忘れ、ただ斬撃を繰り返した。 けれど、リリンの落下点までは斬っても斬っても近づけない。べったりへばりついた血糊は重く、徐々に、しかし確実に体力を奪う。 折れそうになる心。ひとりなら、とっくに投げたであろう運命。それでもアルスは剣を振るい続けた。 アルスの周囲から、じりじりと男たちは後退した。恐れをなしたことも、当然ある。だが、彼らは思い出したのだ、弓での攻撃を。 「撃て、射殺せ!」 上げることさえままならなくった肩に、そのうちの一矢が突き刺さった。よくもまあ、他のすべてを叩き落とせたものだ。それほどの乱射であった。 「まだだっ!」 肉ごと矢尻を引き抜き、アルスは腹の底から叫んだ。しかし、返り血で赤黒く染まった髪の他は、もはや動かすこともできない。 刹那、アルスの背後で爆発音とともに厚い壁が崩れ落ちた。血の臭いの充満した室内に、新鮮な空気が舞い入る。 「友、遠方より来るあり。まあ、さっきまですぐそこのベットで寝とったがな。アルス殿、助太刀致す」 「オフレイム、貴様! 大恩ある伯爵様を裏切るのか」 「やかましいわ佞人が! もっと早くに、わしはこうするべきじゃった。愚かじゃった。なぜ、信じようとしなかったのか。わしの声が届かないと、なぜ決めつけてしまったのか。不肖オフレイム、命にかえても忠義を貫く!」 「臭い臭い、しゃら臭い! じじいがひとり増えたところで、なんの影響がある。さっさと楽にしてやれ、斬り殺せ!」 ふん、と完全に武装を整えたオフレイムは鼻で笑った。黒い胸甲冑を揺らし叫んだ。 「ひとりと思うか。むざむざ負け戦を仕掛けるほど若くはないぞ! こっちは、はなから相討ち狙いよ。放てっ!」 大きく開いた壁穴から次々と投擲されたのは、導火線の半分までを火に食われた、黒光りする炸裂弾の群れ。この建物ごと吹き飛ばす数は充分にある。 「ふ、伏せろ!」 絶望的な絶叫がホールに鳴り響く。 破裂した閃光。つんざく轟音。立ち昇る白煙。それは、 「謀られた! 閃光弾と煙玉だ!」 殺傷能力などはじめからない、目くらましの道具であったのだ。 「アルス殿、ここは退くぞ」 「離せ! リリンが……リリンっ!」 「落ち着かぬか! ここで無駄死にしてどうする。嬢ちゃんを助けたくば退くのだ」 「あの下司! 誰が渡すか!」 楽しませてもらう、そうほくそ笑んだタイラブのゆがんだ顔がアルスから離れない。 「タイラブの考えなぞ百も承知。そっちの手も打ってある。間違いなく、嬢ちゃんの身体も心も守られる。わしを信じよ」 「早くしろ、じいさん! 俺たちじゃもう限界だ。もたねえ!」 「気合でなんとかせい! アルス殿!」 煙幕の向こうから襲い来た影を斬り伏し、オフレイムはアルスの腕をつかんだ。 「すぐ助ける、死んでも行く。だからっ! ……待っててくれ」 振り返ることなくアルスは撤退を選んだ。なぜなら、怒りしかないその瞳は、憎むべき相手から一瞬たりとも外れることなく、馬車が研究所から遠ざかってさえまだ、タイラブの幻影を睨みつけていたのだから。 「追手はないか。どれ、傷の具合はどうだ」 あぐらを組んで荷台に座っていたオフレイムは、速度を落とすように指示すると、アルスの片肌を脱がせた。 「酒を持ってきたろう。出してくれ」 酒瓶を受け取るやオフレイムは、無精髭が伸び放題の男を睨みつけた。 「なんで半分以上減っとる。飲みおったな」 「へへへ、暇だったもんで、つい」 まったくけしからん、などとぼやきながらオフレイムは傷口をアルコールで洗い流した。 「血は止まっておるな。だが、剣を振るうのは当分無理だ」 「この、男たちは?」 沈みきった声を先導に、アルスはかすかに視線を上げると、粗野な雰囲気を漂わす数名の男たちを見回した。 「話したであろう、ほれ、嬢ちゃんに叩きのめされた傭兵崩れ。いま、わしに使える手駒は、こやつらぐらいで」 「なんでい、こやつら呼ばわりかよ。じいさんが頼んだんだろうが、力貸せって」 「悪かった悪かった。感謝しとる」 「しかし、オフレイム殿はタイラブの監視下にあると聞いていましたが」 「その通り。じゃが、アルス殿がことを構えそうだと知らせてくれた者がおりましてな。この者たちとの連絡役も買って出てくれた」 そこまで言うとオフレイムは指笛を吹き鳴らした。 「プルル・ファル……お前たち、どうして?」 雲からちぎれ落ちた白い双頭の鳥が、うなだれるアルスの肩に着地した。 「ナニガ、ドウシテ? ダ。ステラマリスヲ心配サセテ」 「心配? 怒り狂って、の間違いだろ」 「そんなことないわ。ステラマリスはほんとうにアルのことを」 「マアイイ、無事ダッタンダ。ヒトマズ本隊ニ戻ルゾ」 「おいこら、ちょっと待てよ」 アルスとプルル・ファルの会話に、無精髭の傭兵が口を挟んだ。 「怪盗リリンを助けるんじゃなかったのかよ? そうだと思ったから俺たちは、こんな気味悪い化け鳥を恐れることなく、じいさんに協力してやったんだぞ」 「化ケ鳥! ヨクモソンナコトヲ!」 「そうわめくな、プルル。小皺が増えるぞ。なぜお前たちがリリンをそこまで思う。昔の自分を思い出したとか言ったそうだが、顔さえ覚えてないだろう」 「顔なんて知らなくていいさ。だけどよ俺たちは、怪盗リリンの……ファンだからよ」 「ファン……!」 思わずアルスは吹き出してしまった。痛む肩まで揺らして笑った。 「な、なにがおかしい?」 「全部だよ。本人見たらがっかりするぞ。見ないほうがいい、うん、やめとけ」 「そんなに、すげえのか?」 「ああ、お前たちに喧嘩を売ったそうだが、あんなもんじゃない。わがままで高飛車で自分勝手で、とんでもない跳ねっ返りだ。ですよね、オフレイム殿」 「うむ。暴れ馬より、ある意味御しにくい」 いないと思って、言われたい放題も甚だしいリリンであった。 「なんかよ、あんま近づきたくなくなったぜ」 「それがいい。リリンは俺が助け出す。命にかえてもな。馬、止めてくれ」 「おいおい、ひとりでどうこうできるわけねえだろうが。いまだって死にかけてたくせに。作戦練って、それからでねえとよう」 「アルス殿、焦るのはわかるがこの者の言う通り。嬢ちゃんは無事だ。ここは冷静に」 「頭数は何人揃いますか?」 「うむ。多くても三桁には届かんと」 「それなら、ひとりで行くしかありません。多くは言えませんが、リリンを助けることができるのは俺しかいない」 「アル! 溶解スルツモリジャナイダロウナ」 プルルがつぶらな目をむいて、金切り声を上げた。 「……だったらどうした」 「アルハモウ限界ナンダゾ。イマコウシテルホウガ、不思議ナグライダ」 「きもちはわかるけど、ステラマリスがアルのこと、なきながらまってるのよ」 「ステラマリスには、かわりに謝っといてくれ、殴って悪かったって。嫌ってたわけじゃない。ただ、親父さんの言葉に逆らうことを知らないあいつがもどかしかった。自分を見てるようでな」 「自分デ言エ。帰ルゾ!」 激しくぶつけられる言葉とは対称、アルスは穏やかに心を紡ぐ。 「プルル、俺はずっと運命に逆らおうとはしなかった。ステラマリスと同じで、ただ諦めてた。でも、俺は見つけちまったんだ、自分より大切なものを。そんなものがあるなんて、思ってもなかった。あいつの笑顔を、心を曇らせるわけにはいかないんだ! ……最期ぐらい自分で選んだっていいだろ」 なにか反論を見つけようと動く嘴であったが、声が出る前にアルスの言葉が先んじた。 「王狼に伝言を頼む。タイラブは王狼をおびき出して、なにか企んでる。だから、輝幻石からどんな気持ちが届いても挑発に乗るな。まとめて俺が片をつけてやる、ってな。ほら、さっさと行ってやれ。寂しがってたぞ、あの犬。行け、行くんだっ!」 「……わかったわ」 泣きながら飛び立とうとした怪鳥にアルスは、小さな声で最後になる問いかけをした。 「なあ、俺の母さん……綺麗だったか?」 「もちろんよ。ねえ、プルル」 「鏡デ自分ヲ見ロ。目ナンカソックリダ。言イ出シタラキカナイトコモ、ソノママナ」 「そうか……じゃあ、元気でな」 かすかに笑ってアルスは、再度行けと叫ぶかわりに白い背中を優しく押し出した。 「包帯を巻いておこう」 アルスをいたわるよう、詮索の一つもせずにオフレイムは、ぽんと肩に手を置いた。 「オフレイム殿。リリンは無事なんですね。信じていいんですね」 「帰って来んところを見ると、うまくいっておる。わしと伯爵様の間にもまだ、か細い絆の糸は通じておったようだ。タイラブの外道と違ってあの方は、あの年頃の娘に手を出されはせん。なにより……おや、寝てしもうたか。無理もない。安心して休まれるがいい」 自信に満ちたその言葉にアルスは、黙って瞳を閉じた。わずかな間もなく立った寝息が、深い眠りに入ったことを告げた。 |