第四章 二頭立て馬車の縦列は木々をなぎ倒しただけの道を、まさに疾走していた。馬の背に次々と鞭を入れる御者の額には玉の汗が浮かび、高速で回転する車輪は小石につまずいただけでも吹き飛んでしまいそうである。 それもこれもリリンが、ゆったりのんびりと身支度を整えた結果である。 どの森でもそうであろうが、夜になると危険は数倍増しとなる。ましてや森海。陽が落ちる前に、なんとしても目的の場所に到着、防衛体勢を整えなければならないというのに。 「まったく申し訳ありません。大幅に出発を遅らせてしまって」 「なんのなんの、お気になさるな」 「わたくしもう少し、ゆっくりとした旅が好みなのですけど」 「誰のせいだと思っていらっしゃるのですか」 大揺れに揺れる馬車の中には、進行方向に逆らわずにリリン。その左にアルス、正面にはオフレイムが座っている。 「大勢の人がいらっしゃるのですね」 アルスの言葉をさらりと無視し、リリンは窓ガラスに頬をくっつけて外を見やった。車のついたまともな馬車はこれを含めて数台で、他はただの荷台に溢れ落ちそうなほど人を乗せている。 「砦を建てるための人足が百名余り」 「あら、そんなに少ないのですか。丈夫な砦を急いで建てないといけないのでしょう?」 「一度組み立てたものを部品ごとにまとめ運搬するので、それだけの人数で充分なのですよ。建造予定地はすでに伐り開き、ならしてありますしな」 「考えてありますのね」 「あとは兵士です。三百ほどはいましょうか」 「そんなに。でしたら森海でも安全ですわ」 心にもない、お嬢様としての認識をリリンは口にした。 「さて、何日もつことやら……申し訳ない」 いきなり、深々と老人は頭を下げた。 「なにをなさいますの?」 「生い先短い、このじじいのわがままに若いお二人を巻きこんでしまって」 「顔をお上げ下さい。隊長がそんな弱気では士気に関わります」 アルスの言葉にもオフレイムは顔を伏せたままで、小刻みに身体を震わせる。 「わしは……臆病者でしてな。戦場で死ぬこともできず、面と向かって主君に諫言することもできず、ただ、生き長らえてしまっただけの――」 「ちょっとおじいちゃん」 「お、おじいちゃんとな!?」 驚きがオフレイムの顔を上げさせた。 まずい、という表情を一瞬見せたアルスであったが、止めても無駄との判断からか、黙って瞳を閉じた。 「死ぬためにここに来たっての? 帰りましょ、アルス。見こみ違いだったのよ」 「見こみ違いと、そう言われるか」 「アルスはねえ、おじいちゃんを死なせたくない、死なせるのが惜しいって。だから、危険を承知で……そんな情けない気持ちのくせに、こんなんじゃ騙されたのと同じよ!」 「それはっ! ……返す言葉も見つからぬ。じゃが、アルス殿がおられれば鎧獣とも互角に渡り合えると、そんな気持ちに」 「だったら信じなさいよ。なにも起きてないうちから弱気になってさ。あーあ、だから年寄りは辛気臭くてやなのよね。家で日向ぼっこでもしながら、ぽっくり逝くの待ったらどう?」 「そのへんにしておきましょうか、お嬢様。もっとおしとやかにされないと困ります」 「だって、腹が立ってしょうがないじゃない。闘う前から負けること考えて、勝てるわけないでしょ」 化けの皮がはがれ、骨の髄まで露になってしまった、そんな感じであろうか。 「それにねえ、どうして半仮面卿を止めようとしないのよ? 主人が間違ったことしたら、それを違うって言うのが、おじいちゃんの役目じゃないの。いつまであんな暴走を黙って見てるのよ」 「なにが、わかるというのだ」 静かに、どうにか自らを律した言葉が微妙な震えを伴って返された。 「わしだって何度も諫めしようとした。諫言の手紙を何枚もしたためた。じゃが、わしの言葉になぞ耳を貸されるはずが」 「結局、なんにも言ってないんでしょ。いまと同じ、やる前から決めつけて」 「あの方はわしが知っていた、聡明で慈悲深い伯爵様ではない。変わられた、そう変わられたのだ。わしには子がない。一時は実の息子のように思い、父のごとく慕ってもいただいた。それもすべて、古い話だ」 「二人の絆がどれだけのものかなんて、あたしにわかるわけない。ま、本人がだめってんだから、だめなんでしょうよ。でもね、子供が悪いことしたら、親の他に誰が叱りつけるの? もしかしたら待ってたのかもしれないわよ。いまだって、待ってるのかもね」 腕を組んで黙りこんでしまったオフレイムを不憫に思ったか、アルスが擁護を挟んだ。 「いいですか、お嬢様。主君と配下の間には、それでも壁があるのです。武人であればなおさら、自らの分限を知るもの。オフレイム殿を責めるのは筋が違います」 「だって……」 「一昨日」 蒼白な表情のまま、オフレイムは静かに声を絞り出した。 「我が主君の本邸に賊が入りましてな。ご存じかな、アルス殿?」 「え、ええ、小耳に挟む程度にはですが」 「あえなく、わしも打ち倒されてしまったのじゃが、これがまあ、めちゃくちゃしおりましてな。屋敷の内部は目も当てられんほど破壊し尽くされて」 「それは、本当にご不幸なことで」 空とぼけたまま、アルスは相槌を打った。 「ところが、それだけの被害にもかかわらず、死人がひとりも出ておらんのです」 「ひとりも、ですか?」 アルスは聞き返した。少なくとも自分が手にかけた、伯爵の影がいると思ったのだ。 「わしを赤子のように捻った賊は、ひとりの死人も出してはおりませんわい。なんせ向こうは怪盗、人をあやめるなど、絶対しないと叫んだとか。顔すら思い出せませぬが対峙したわしも、その言葉に間違いはないと信じております。骨折やら火傷やらさせられたものは、掃いて捨てるほどおりますがの」 「はあ」 「それどころか、まったくやる気のなかった衛兵どもが、なにやら生き返ったように熱心に仕事に打ちこみ出しましてな。なぜかと問うたら、その女怪盗に罵詈雑言を浴びせられたとか。やつらが言いますに、その悪態が若い頃の自分を思い出させたと。嬉しかったとまで言いおる始末で」 「それはなんとも……」 「そやつらの気持ちがいま、わしにもわかり申した。嬢ちゃん、感謝いたす」 リリンとアルスは、きょとんとした表情で目を合わせた。年端の行かぬ小娘に罵られてこの反応は、予想外であった。 「いえ、わたくしこそ、ついかっとなってしまって」 「はははっ。普段通り、もっと気楽になされよ。遠慮は無用。あと半日は馬車のなかじゃしな。おい、もっと飛ばさんか!」 覗き窓越しに御者に向け、叱咤の声が飛ぶ。生き生きとした、二十年は若返った声が。 馬に血泡を吹くまでの無理を強いた一行が、目的地である森海間際に到着したのは、残光がまだかすかに、あたりを照らし出している時刻であった。東の空には一番星が恥ずかしそうに顔をのぞかせている。 到着すると同時、休むこともなく砦の建造がはじまった。荷台から部品が下ろされるや、驚くべき速度で組み上げられていく。 一方、兵士たちはオフレイムの号令の下、整然と列を作り、まずは周囲一帯をかがり火で囲んだ。鎧獣も一応は、火を恐れるとの説が有力である。そしてそのまま、一糸乱れぬ防衛陣を形作った。誰一人無駄口をきくことなく、周囲を睨みつける。 老練なオフレイムの的確な命令もさることながら、必死なのだ、皆。この痛いほどの緊迫感は、悲壮感という土台の上に築き上げられたものだった。 リリンは馬車から降りると、大きく伸びをしながら腰を叩いた。お嬢様のふりをしないだけ楽な旅ではあったが、身体のあちこちは苦痛を訴えている。 馬車では他愛のない雑談で時が流れた。戦場での逸話、果ては薄くなった頭のことなどを、おもしろおかしく語りながらも老隊長は、余計な詮索はいっさいしなかった。 「お嬢様、これからはもう少し気品ある態度をお願いします。淑女はそんな、顎が外れそうなあくびはしません」 「だって疲れたんですもの。それにわたくしたち、なにをすればいいのかしら」 「しばらく、隅で座っておきましょう」 二人は作業の邪魔にならないよう適当な大木――この辺りの木々は、どれを見ても樹齢数百年は間違いなくある――の根元に腰を下ろした。 「ったく、とんでもないお嬢様だ」 「へへ、やっちゃった。でもおじいちゃん、元気出たみたいだから」 「結果はまあ、いいほうに出たな」 「だけど、あのだれきった傭兵たちがやる気出したなんて、不思議なこともあるわよね」 「そうか?」 「え、不思議じゃないの。どうして?」 小首をかしげてリリンは説明を求めた。 「調子に乗りそうだから、言わん」 「ぶーっ。ケチケチしないで教えてよ」 「そのうちにな。ん、あれを見ろ」 「ごまかす気……え、まだ来るの」 遅れて三台、馬車が到着した。 一台は、マントと五芒星のアクセサリーだけでそれとわかる、魔道士の集団を乗せていた。頭数は十と少ないが、両の手のひらでも隠しきれないほど巨大な、虹色に光る輝幻石を全員が所持している。 「大きな輝幻石。どんな魔法が使えるのかしら。色と魔法は関係してるはずだけど」 「さてな。色々と使いわけれるんじゃないか」 次の馬車には黒ずくめの総甲冑を着こんだ戦士が、やはり十名。目を見張るべきは、その体躯の見事さ。鎧からはみ出す腕や足はリリンの胴回りほども太く、特に胸板は、一般の男性二人が縦に並んだよりもまだ分厚い。 「こいつらだな、タイラブの言ってた実験がどうこうってのは」 「らしいわね。この蒸し暑いのにフルフェイスの兜なんて、ごくろうなこと。ちょっとちょっと、なんで女の人がたくさんいるの?」 最後に現れたのは安物の香水の匂いを振りまく、きわめて露出の高いドレス姿――膝上もはなはだしいミニスカートばかり――の女性が、わらわらと二十名以上も。 「どうやら商国は本気でここに拠点を築く気らしいぞ。魔道士部隊にでかぶつ。それに、あの女たちは娼婦だ」 「娼婦っ!?」 よほど驚いたのだろう、とんでもない大声をリリンは上げてしまった。あらゆる視線がしばし、集中するほど。 「んな驚くな。娼婦ぐらい見たことあるだろうが」 「そりゃあるわよ。どこの街にもいるし。だけど、どうしてこんな危険なとこにわざわざ」 「娼婦が飯を作りに来てくれると思うか?」 「もちろん、娼婦の仕事は……」 「そういうことだ。わかるだろ」 「わかんないわよ。こんな危険な場所で、その、仕事するの?」 火照る頬に手をそえて、リリンは口ごもりながら追求を重ねた。 「戦場に娼婦、珍しい組み合わせじゃない。ここも、最前線みたいなもんだしな」 「珍しくないんだ。自分が死ぬかもしれないのに、女の人が欲しくなるのね、男の人って」 「全部の男がどうかは知らんが、そういうやつもいるって話さ。傭兵は特に、いい女を抱いて酒飲んで、思い残すことなく死ぬってのが典型だしな」 「なんだか、兵士の目つきが変わった気がする。アルスも……したい?」 「ば、ばか。嫁入り前の娘が、そんなはしたないこと口にするんじゃない」 「慌てるとこ見ると、やっぱりしたいんだ……獣」 「決めつけるなってーの。第一、娼婦の世話になるほど、俺は女に不自由してない」 「お久しぶりね」 リリンの非難を突っぱねたアルスに、娼婦の群からひとり歩み来た女性が、青みがかったシルバーブロンドを悩ましげにかき揚げながら、深い海の瞳で微笑を向けた。 正直なところ、命の危険が極めて大きい森海に来てまで稼ごうと考える娼婦の容貌が優れているわけもなく、肌の衰えを化粧でごまかすにも限界ぎりぎりといったところ。 けれど、この女性だけは異彩を放っていた。整った顔立ちはもちろん、豊満な胸、くびれた腰。白い肌にも白粉の匂いなど微塵もない。 「な、なによ、やっぱりじゃない。しかも顔見知りなわけ。もう最低、不潔、大っ嫌い!」 「いや、この女……この人は」 「いつ子守に転職なさったの、アリスノバ?」 「君こそ娼婦とはね、ステラマリス」 アルスの口調から抑揚が消えた。正確には感情が薄れたと言うべきか。リリンに対する口調とは、明らかに異質なものに変化した。 「ひどい言いかた。許嫁のあなたを心配して、わざわざここまで来たのに」 「誰の指示だ。君は俺より大事なものを、いくつも持ってる人だからな」 「考えすぎよ。わたしはわたしの心のままに」 「君の心じゃない。親父さんのだろ」 「結果は変わらないでしょ。わたしはあなたの子供を産む。それが、愛でも義務でもね」 微笑みを絶やさないステラマリスに対し、アルスの表情は固く引きつった。 「依頼を果たせば戻る。帰ってくれ、早く!」 「つれないのね。でもその前に、お嬢さんとお話したいわ、二人っきりで。いいでしょ?」 「だめに決まって――」 「いいわ! アルス、向こう行って」 「リリン、よすんだ。ステラマリスは」 うふふ、と妖しく笑ったかと思うとステラマリスは、アルスの頬を両手で挟んでリリンへの視線を奪い取り、唇を合わせた。 「…………っ!」 声にならない声。大きく見開いたリリンの瞳に、驚きを押し退けて悲しみが広がる。 ステラマリスを突き飛ばし、口を拭いながらアルスは、その場から逃げるように離れた。 「いつまでたってもかわいい人。子宮がうずいちゃう。そうは思わない、お嬢ちゃん?」 「話ってなによ?」 「怖い顔。そんなに怒らないの」 「怒って――」 「怒ってなんかないわよ。あたしはアルスのことなんて、なんとも思ってないんだから! ふーん、下手な嘘つくのね」 リリンの言うはずだった言葉が、すべてステラマリスに奪われた。 「ど、どうして」 「どうして、あたしの考えがわかるの? それはね、お嬢ちゃんが単純だから。単純ですって! そうやって怒るところが単純なのよ」 ステラマリスはひとりで会話を交わした。呆然とその笑みを見やるリリン。多分、いや間違いなく、リリンの言葉が先取られていた。 「プルル・ファルから聞いたわ。口の悪い小娘が、アリスノバの周りをうろついているって。邪魔なのよ、消えなさい」 口を開いたリリンだったが声にならなかった。また、自分の考えを読まれると思うと、恐ろしくて言葉など出せない。 「お嬢ちゃんは陽炎のこと、なんにもわかってない。わたしたちがどれだけ悲しい存在かを。普通の人間に陽炎を幸せにすることなんてできない。ええ、わたしにはできるわよ。でも、お嬢ちゃんには無理。わきまえなさい」 ステラマリスの一言一言が、リリンの胸に深く突き刺ささる。痛い。 「アリスノバは母親に捨てられた。あの女とお嬢ちゃんは、少し似ているってファルが言っていたわ。いいこと、アリスノバはお嬢ちゃんを見ているわけじゃないの」 「アルスは」 「アルスは母さんの名前も、知らないって言ったもの。ふんっ、知らないわけないでしょ。お嬢ちゃんなんかにはね、教えたくなかっただけ。ね、これでわかったでしょ。お嬢ちゃんは弄ばれてるの。ちょっと優しくされたからって、勘違いしないことよ! 子供は帰って、ママのおっぱいでも飲んで寝てなさい」 「あたしの母さんは! ……母さんは」 「もちろんわかってる。わかってて言ったの。死ぬんじゃないの、明日にでもね」 不敵な勝ち誇った笑み。リリンの瞳からは涙が溢れた。これほど残酷な言葉は……ない。 リリンは顔を押さえて駆け出した。深く暗い、道さえない森の海に。 しゃくり上げだけが、壁のように大きな木々の間に響いた。息もできないほど、強く何度も。拭っても拭っても止まらぬ涙は視界をぼろぼろにし、ついに木の根に足を取られたリリンは、大地に小さな身体をぶつけた。 ひどいよ、ひどいよ……! そのまま突っ伏して声を上げて泣いた。 どれだけの時間、そうやって涙をなくし続けただろう。リリンの耳に、自分の涙以外の声が届いた。アルスの探し呼ぶ声が。 「リリン」 葉擦れの音が後方から少しずつ近づき、遠慮がちに止まった。 「来ないでっ! ……来ないでよ」 「すまん。あそこまでステラマリスが」 「ほっといてよもう! 剣もいらない、あの女とどこへでも行けばいいでしょ!」 「助手は首か……でも、ステラマリスはもう帰った。ぶん殴ってやったら、帰ったよ」 「…………」 「あいつがリリンになにを言ったかは、全部聞いた。ほんとに悪いと思ってる。だから」 「いやっ!」 肩へと伸ばされた手が、声と手によって振り払われた。 「嘘つき。名前も知らないって言ったくせに。嘘つき、嘘つきっ!」 「いまから話す、聞いてくれ」 「遅いわよ……聞きたくなんかない」 「嘘をついたのは悪かった。だけど俺にだって、言いたくないことの一つや二つはあるさ。会ったばかりだったから、なおさらな」 「……もう嘘つかないって約束してくれる?」 「ああ、約束する。絶対だ」 「今度だけ、許したげる」 そう言ってリリンは横着にも、うつ伏せのままもぞもぞと、芋虫の動きで半回転した。そして白さをなくした瞳で見上げつつ、座って話そ、と声をかけた。 「陽炎は必ず、両親の名前をもらうんだ。俺も正式にはアリスノバ。ステラマリスが呼んでただろ。アリスが母親の名前だ」 「どうして、アルスに?」 「俺を捨てた女の名前なんて使えるか」 顔を背け、アルスは吐き捨てた。昂る心が手に触れた枯れ葉を握りつぶす。 「母親は陽炎じゃなかった。なじめなかったんだとは思う。俺が五つにもならないときに、ひとりで出て行っちまった。それっきりさ。勝手に生んで勝手に捨てて、いい迷惑だ」 「……違う」 「なに?」 「違うもん! 母さんは子供を捨てたりしない。絶対しない。いつだって、子供の幸せだけを願ってくれてる」 「それは、リリンの思う母親はそうかもしれんが、俺の――」 「違うって言ってるでしょ! きっと、どうしょうもない理由があったのよ。誰の母さんも暖かくて優しい。絶対そう!」 「うるさいっ!!」 リリンの鼓膜が痛いぐらい震えた。驚きでまた、涙が溢れる。 「だから……言いたくなかったんだ。こうやって、言い合いになるだろ」 「だって……」 「なんでリリン、そんなムキになる。俺が言うのもあれだが、意地張り過ぎじゃないか?」 「……言ったよね、王狼殺すのは血は繋がってないけど母さんを助けるためだって。母さんのこと大好きよ。世界で一番好き。でも、やっぱりどこかで違うって思ってる自分がいる。ほんとの母さんだったら、もっと好きになったんじゃないかって……死に別れたんだから、どうしょうもないのあたしは。でも、アルスは違うでしょ。アルスがお母さんのこと悪く言うの、とっても辛い。いやなの、ほんとに……」 涙を隠そうともせずにリリンは、唇を噛むアルスをじっと見つめた。 「俺もさ、リリンの母さんみたいな人の子供に、生まれりゃよかったのにな」 涙の頬にそっと指を当てて、アルスは笑顔に似た表情を作った。 「会ったこともないのに?」 「リリンを見てたらわかる。リリンには、人を幸せにする力があると思う。それは、いっぱい愛されて育ったから自然に、自分の幸せをわけてるんだ。幸せは金と同じさ、自分が持ってないと、いくら人に分け与えたくても無理なんだ。……がらにもないこと言っちまったな。さあ、行こう。みんな心配してる」 「やだ……痛いんだもん」 「怪我したのか! どこだ見せてみろ」 「母さんのこと思い出して胸が痛いの。ぎゅって、抱きしめてくれる? そしたら、治る」 答えが返される前に、リリンは跳ね起きしがみついた。細い身体を支えた腕は、わずかに躊躇したものの、そっと圧力をくれた。 「あたし、アルスのお母さんのこと信じるよ」 「好きにしてくれ」 「そうする。ねえ、もうちょっと強く」 そう要求してリリンは自らも、たくましい背中に回した腕に力をこめた。 「あの冷血女、どうしてあたしの言葉を先回りできるの? 心が読めるの?」 「ステラマリスは心じゃなくて記憶を見るんだ。近く強い記憶は浮き出して見えるんだと。似たようなもんだがな」 「ぶん殴ったんだ」 嬉しそうにリリンはつぶやいた。 「ああ、思いっきりな。婚約破棄でもされるんじゃないか」 「困る?」 「いや、せいせいしたよ。でかい胸だけは気に入ってたんだがな」 「ふーんだ。ぺちゃんこで悪うございました。ありがと、痛くなくなった。離してくれていいよ。んっ、そんなにしたら苦しい」 「もう泣かないって、約束したら離す。俺は」 「アルスこの音!」 かすかながら、魔法の炸裂する爆発音が風に乗って届いた。 「ちっ、もう来やがったのか。走るぞ」 「わかった、痛っ!」 「どうした?」 「足、ちょっと捻ったみたい。でも、これぐらいだいじょうぶ。急ごっ!」 気丈にも、痛めた足で大地を二度踏みつけたリリンはアルスの背中を押し、狭い木々の間を縫うようにして森海を駆け抜けた。 「おお、アルス殿! 嬢ちゃんも無事か」 「オフレイム殿、敵は?」 「蛇と蜥蜴の間の子のような化け物が、確認できただけで八匹。ええい、タイラブが娼婦などよこすから、混乱の収拾がつかんわい!」 慌てふためく天然色のドレスが剣の間を行き来して、危険なことこの上ない。その足元にはすでに、いくつもの身体が倒れうめいていた。そのなかには、黒づくめの巨漢の姿も見える。でかい身体はなんのことはない、見かけ倒しであったのか。 「魔道士はどこ? あんな大きな輝幻石持ってるんだから、鎧獣の十や二十、わけないはずでしょ」 「真っ先に逃げおった。それがどうしたことか魔法が」 「きかないっての、あの輝幻石が? それならあたしが一発ぶちこんでやるわ」 天に突き刺さんばかりに、かざす左手。 「左だ、リリン!」 リリンの手から巨大な炎の塊が、 「な、なんで!?」 生まれ出ることはなかった。風のなかのろうそくのように、小さすぎる火球がほのかに揺れて消えたのみ。リリンに襲いかかろうとした、直立歩行の上に武器まで携えた蜥蜴の化け物は、アルスの決死の体当たりで、どうにか吹き飛ばされた。 艶のある、硬い鱗で覆われた緑の身体は太い尾を左右させながら、シャーッ、と威嚇音を発しながら跳ね起きた。真っ赤な細い舌が、ちらちら揺れる。 「どうしたリリン、どこか悪いのか?」 「そんなことないけど、けど……」 「魔道士も同じじゃった。輝幻石だけはでかくても、肝心の魔法が子供の悪戯程度にしか」 こぶだらけの棍棒を剣で受けつつ、蜥蜴男の腹に蹴りをくれて、オフレイムは叫んだ。 「発生せんのじゃ!」 「ど、どうしよう……逃げる、それしかないわよ、アルス!」 せっかく乾いた涙を再びこぼしそうな瞳が仰ぎ見た顔は、涼しげに笑っていた。 「だいじょうぶだ。任せろ」 「無理よ、だって」 「三流の盗賊より弱いくせに、だろ。だけどな、この風なら充分だ」 アルスは左右の腕に一本ずつ剣を握るとなんのためらいも見せず、無造作に鎧獣との距離を詰めた。 「風なんか吹いてないじゃない」 「まあ見ててくれ。オフレイム殿も無理をなさらずに」 余裕を並べ続けるアルスに鎧獣の石斧が振り降ろされる。長い腕を利しての上段からの一撃。まともに受けては力負けは明らかな勢いである。 「よけて!」 祈りの叫びに交じり、石と金属の打ち合う甲高い音が大きく空気を揺らしたかと思うと、艶光る緑の身体はなぜか大きくバランスを崩し、前につんのめっていた。アルスは素早くその背後に回りこむと首裏に剣を一閃。体勢を立て直すことなく、蜥蜴男は倒れた。 「なに、いまの動き?」 リリンの問いに答える暇もなく、三匹がアルスを囲んだ。手強いと悟っての集中攻撃。 「ほら、来いよ」 余裕の手招きをしたアルスの背後、木の陰から四匹目が飛び出た。思わず顔を背けたリリン。声も間に合わぬ、それほど素早い急襲であった。 「なんとっ!!」 オフレイムの大声につられ、恐る恐るリリンは横目でアルスを見た。 「う、嘘でしょ」 輝幻石の刃を持つあの剣が鞘を離れ、死角からの攻撃を受け流したのだ。それも、 「か、髪の毛が、剣抜いちゃった……」 アルスの剣術は、はったりでもなんでもなく、三刀流であった。黒髪は三本目の手となるべく、伸ばされていたのだ。海に漂う海草のごとく、ゆらりゆらりと黒髪は、握った剣を踊らせる。 それでも状況は依然一対四。鎧獣が、いつまでも驚いたままでいてくれるわけもなく、連撃が襲いかかった。前後左右、息もぴったりの攻撃がほぼ同時、一斉に振り下ろされる。 しかし、そのすべてを三本の剣を巧みに操り、アルスは受ける、流す、跳ね返す。しかも、攻撃を撃ち返すたびにその斬撃は見てそれとわかるレベルで、速度を上げていくではないか。 「動いてない……」 リリンの言葉は、アルスの足元を見てのつぶやきであった。軸足が大地に根を張ったように、まったく動かない、ズレさえしない。 腰から上の回転はさらに速度を増し、空気を千にも斬らんとする剣はついに、敵の武器を次々と弾き飛ばした。深手を負った鎧獣は奇声を発しつつ遁走した。 「ざっとこんなもんさ」 勝ち誇った笑みを浮かべたアルスに、リリンは駆け寄った。そして熱い……唾が飛んだ。 「やっぱり手抜いてたんじゃないのよ!」 「誉め言葉とか、ねぎらいはないのか……」 顔にかかった唾を拭いながら、ため息まじりの落胆が漏れる。 「こんなに強いくせに、騙すほうが悪いの!」 「いやな、騙したわけでも、手を抜いたわけでもないんだ、まじで」 「まだ言う!」 振り上げられた拳にアルスの身体が縮こまる。叱られた子供のような仕種。 「風車の理論。そうですな、アルス殿!」 枯れることを知らぬオフレイムの大声は、感嘆の響きを多分に含んでいた。 「さすがはオフレイム殿。ご存じでしたか」 「まさかこの技を生きているうちに目にできるとは。いや、長生きはするものだ」 「なになに、風車の理論って?」 「逆らうことのない円の動きで、攻撃を受けることから始まる剣術だ。大切なのは相手の力を反動に使って、自分の剣の速度を上げること。見ての通りさ」 「風車が、風の力を利用して回転する様から、考え出されたと言われておってな。理屈は簡単だが、これを実際にやるとなると、努力だけでは如何ともしがたい壁を越えねばならん。並外れた動体視力はもちろん、長い剣を操る腕力、腕も四本は必要とも言われておる」 「問題があるとすれば本物の風車と同じで、風が弱いと、つまり相手の力が弱いと、まったくの役立たずになるってことだな。この戦いかたが身体に染みこんでるから、三流の盗賊に勝てなくなったりするわけだ」 「うーん、すごい気はするんだけど、結構間抜けだとも思う、それ」 「人の努力の結晶を間抜けの一言で片づけるな。理論上、相手が強ければ強いほど、風車の回転も上がって負けないんだぞ」 「だけど、弱い相手にはころっと負けると」 「長所を認めんとぐれるぞ……」 「いい歳してばか言ってんじゃないの。あたしは、髪の毛が動いたほうにびっくりしたわ」 リリンの指がこわごわ、乱れた黒髪に伸びる。 「わっ!」 「うにゃっ!」 「そんなに驚くな。取って食やしないよ」 ぽかぽかと、小さな拳がアルスの胸を叩く。 「意地悪しないでよ、もう。どんな仕組みなの? 切ったりしたら痛いの?」 「痛くはない。なんで動くかってのは、わからん。リリンの髪はどうして動かない?」 「どうしてって、動かないから動かない」 「同じことさ。動くから動く。ただ」 急に声量を落としてアルスは、長い髪を一束握り締めた。 「俺の母親は動かすことができた。人間じゃなかった、そうらしい」 「人間じゃないって……?」 「人間以外のなにかさ。ま、世間一般からすりゃ化け物の間の子だな、俺なんか。正体もわからんものから生まれて、捨てられて、どうしろってんだ。……残り、始末してくる」 自嘲気味の笑いで口元をゆがめ、アルスは大きく剣を空振った。心のなかのなにかを断ち切るかわりに。 「そんな言い方って――」 背中に向けて叫ぼうとしたリリンの肩に、オフレイムの節くれだった手が置かれた。 「やめておくのだ。アルス殿は火傷しておる」 「火傷?」 「心にじゃよ。触れようとされるだけで、ひどく痛むな。なんせ、男にとって母親は特別な存在。わしもこの歳でまだ、母親の夢だけは見る」 「あたしだって母さんのこと大切だもん」 「それはわかる。しかしな、女は自分で命を生むことができる。腹を痛めながら、新しい絆を作り出せる。絶対に消えぬ、たしかな絆をな。じゃが、男にはそれがない。だから幾つになっても、たった一つだけの間違いない命の絆を、自分を生んでくれた母親を思うしかない。女は故郷になれる。男は故郷を慕うしかできん。そういう違いがあるのだ」 「男と女の違い」 「命をわけることができる女と、わけられただけの男。男など哀れなものよの。口ではどう言おうがアルス殿は母親を愛しておる。その気持ちが強いから、屈折もまたひどくなる」 「あたし、どうすればいいの? さっきも、勝手なことばっかり言って……」 「黙って、接吻でもして来たらどうだ」 「な、なんでそうなるのよ!」 「む、好き合っておるのだろう?」 「ち、違うわよ。そりゃ、向こうがどう思ってるかは……わからないけど」 「無理をせんでもいい。長生きだけが取り柄の、このじじいの目はごまかされんぞ」 「会ってまだ三日なのよ。そんな簡単に人なんて好きになれないわ」 「わしなんぞ会ったその日に結婚を申しこんだ。いまでもその連れ合いと、仲良くやっとる。色々と、ありはしたがな」 「そんなに早く? 焦りすぎじゃない」 「あのころは、明日の命があるかもわからん時代じゃった。ためらっている暇が惜しかった。嬢ちゃんも迷っているうちに、ボケてしまわんようにな」 無骨な表現とともに、リリンの背中が思い切り叩かれた。手加減を忘れた力に、大きく前に押し出されたリリン。 「いったーい。足怪我してるんだから、そんなひどく叩くこと……おじいちゃん!」 振り返ったリリンの視界の中央でオフレイムは立ちすくんでいた。脇腹に刃を受けて。 油断してはいた。しかし、まさか味方に襲われようとは。実験段階などと呼ばれた割に役にも立たず、鎧獣に打ち倒されていた巨漢のひとりが地面を舐めたまま、あろうことか大剣をオフレイムに突き入れたのだ。 そのまま黒ずくめの巨漢は、小刻みに身体を揺らしながら立ち上がる。 「慌てんでいい、嬢ちゃん。見ておれ、これがわしの戦い方よ」 「戦い方って、その傷じゃ」 「アルス殿のように華麗にはいかんがな。動くまい、でかぶつ」 巨漢は懸命に腹に刺した剣を引き抜こうとしているように見えた。けれど、血が滴る刃はオフレイムの言葉通り、微動だにしない。 「大馬鹿たれめが!」 振り上げられた白刃が兜ごと巨漢を両断した。稲妻に似た、鋭くも力強い一撃であった。 「どうじゃ、衰えたとはいえ、なかなかの……あいたたた」 オフレイムが自らの手で剣を抜くと、傷口からは鮮血が溢れた。片膝が折れる。 「おじいちゃん!」 「心配ない。いいところを見せようと、ちいと張り切りすぎた。なにしろ、嬢ちゃんには一度不覚を取ったからの」 「うん、かっこよかったよ。だから、寝てて。アルス呼んでくる」 リリンは尻尾を踏まれた猫も驚く素早さで身を翻し、足を引きずりつつ走った。 「アルス、どこ! たいへんなの!」 左右を見回すリリンの目に、火花が見えた。真闇が降り始めた森に目を凝らすと、やはり巨漢相手に撃ち合うアルスの姿がそこにはあった。 「アル――」 言葉の途中リリンは倒れた、いや倒された。闇の底からの猛烈な突進がリリンに食らわされたのだ。大男たちの裏切りは続く。 「あぐっ……」 仰向けに倒れたリリンは後頭部をしたたかに打ちつけた。視界がぐらぐらと溶ける。 朦朧とするリリンの首に、そのまま馬乗りになった男の手が伸びねじり締める。息が苦しい、顔に血が溜まっていくのがわかる。宙を掻きむしる指が徐々に動きをなくし、意識が別の世界へと飛び去ろうとしたその瞬間、まるで意志を持ったかのようにかざされた左手が、いつも通り強力な魔法を撃ち放った。 特大の炎が瞬時に運命を取り替えた。男は吹き飛び間一髪、リリンの命は救われた。 「げほっあはっ……」 新鮮な空気は、すぐにリリンの体内を駆けめぐり、土気色だった頬を染め替えた。 「助かった……」 一方、火炎の直撃を食らった巨漢は熱さにもがき苦しみ、身体を引き裂く勢いで兜や鎧を脱ぎ捨てた。 「なっ……牙に、角!?」 リリンは信じたくない光景を目にした。世にも醜悪な姿に変化した人間の姿を。異様に発達した身体には、返しのついた刺のような突起がいくつも並び、半開きにしかできない口からは牙が伸びる。さらに額には、おかしな方向に折れ曲がった角までが。 「まさかこれ」 「リリン、だいじょうぶか!」 「遅いよアルス! もうちょっとで、こんなかわいい女の子を永久に失うっていう、取りかえしのつかない甚大な社会的損失を」 「わかったわかった。元気そうでなにより」 「ほんとに死にかけたんだからね。魔法が使えたから、なんとかなったけど。そんなことより、こいつ見てよ」 「これは!?」 「強化犬と同じように、輝幻石を埋めこまれたんじゃないかしら」 「その通り」 厳しい顔で、焼けただれていく男を観察していた二人に後ろから、太い声がかけられた。 「おじいちゃん! 寝てないと傷が」 「傷?」 「こいつらに脇腹を刺されたの」 「そういうことは早く言え!」 「だって……あたしだっていま、殺されかけてたのよ!」 「殺されても死なんだろうが、お前は!」 「痴話喧嘩するでない。わしはほれ、かすり傷」 しかし、ぼとぼとと落ちる血は正直に老人の状態を表していた。 「とにかく止血だ」 「ほら、寝る」 無理矢理に武装をはがれたオフレイムはそれでも、たいしたことはないと繰り返した。 「うわっ、なによこの傷の数。ぼろ雑巾だって、もっとましよ。年季入りすぎの身体してるわね」 「だから言っておろうが、これがわしの戦いかただと」 「ではもしかして、あれですか?」 「うむ、やはりご存じか」 「なによ、あれって?」 「昔の武人はよくやったらしい。敵の刃を急所を外した身体にわざと受けて、筋肉を収縮。剣を抜けなくするのさ」 「じゃあ、わざと」 「最初から、そうと言っておろうが」 「ただし、昔はいまほど優れた剣はなかった」 「知ってるわよ。鍛冶の技術も輝幻石のおかげで発達したのよね」 「そうだ。それまでは重装歩兵の鎧は、ほとんど無敵だった。だから、装備の間を突く、細い針みたいな剣しかなかったんだ。それならともかく、幅広の剣でそんなことをやったら」 オフレイムの傷口は致命傷ではなかったものの、決して軽いものでもなかった。 「なんとか血は止まったけど縫わないとだめね。とりあえず、ぐるぐる巻きにしとくわ」 「リリンがいると包帯の心配はないよな」 「まっあねー。はい、でっきあがり。そんなに驚いた顔されると、ちょっと傷つくかな」 久方ぶりの外気にそよぐリリンの銀毛を見て、オフレイムは普段にはない動揺を見せた。 「……いや、これはすまんことを。その腕はもしや、王狼の仕業」 「知ってるの?」 「う、うむ、一応はな」 「そうなんだ。で、おじいちゃん、あの男たちはやっぱり、強化犬と同じなのね」 腕のことに触れられるのを嫌い、リリンは話を戻した。 「もともと、強化犬は人間への応用を目指した技術でな。止めようがなく……」 「オフレイム殿が気に病むことではありますまい。しかし、なぜ暴走を?」 「命を冒涜して、まともな結果が得られるわけもない。おそらくは、血の匂いにかすかな理性も焼き切れたのじゃと」 「だとすると、一刻も早くここを離れるべきだな。あいつらタフだぞ。時間が経てばまた、動き回るだろう」 「おじいちゃんも早くちゃんとした治療をしないと」 「それはいかん。わしはここに残り、兵をまとめんと。それが将たるものの役割」 「なーに言ってんのよ」 ぱしんとリリンがオフレイムの傷口を叩いた。説得の言葉を言い聞かせる前に、まずは悶絶に追いやる。 「そんな痛いくせに無理しないの。何人生き残ってるのかはわからないけど、敗残兵のとりまとめはあたしたちがやるわ。年老いた奥さんを、ひとりにしちゃだめなんだから」 「その通りですよ。おい、そこのマント、そうだお前だ。魔法も使えんへたれた魔道士でも、馬ぐらい操れるだろう。オフレイム殿を連れて戻り、救援を要請してくれ」 「いかんいかんっ! わしわぎゃっ!」 「叩くわよ、また」 「叩いてから言うのはよせ、リリン」 「怪我人は邪魔邪魔。荷台に寝かせたほうがいいわよね」 「そうだな。ほらお前、ぼさっとしてないで、手伝え。ちゃんと助けを呼んで来るんだぞ」 役にも立たなかった魔道師をこき使い、オフレイムはきしむ荷台に固定された。 「本当にお任せしても」 「だから、だいじょうぶだって。帰ったらタイラブを、役立たずばっかり寄こしたって、叱り飛ばしてやってよね」 「無論。あの小者のせいで、余計な犠牲者が増えてしもうた」 「ちょっと、あたしたちも乗せなさいよ。これ以上、こんなところにいられやしないわ!」 魔道師が馬に鞭をいれようとした直前、数名の娼婦が現れた。 「オフレイム殿、どうされます?」 「わしは構いませぬ。少しでも被害は少ないほうがよいと」 「隊長のお許しだ。早くしろ」 なによ偉そうに。当たり前でしょ。 口々に身勝手な言葉を言い捨てて、娼婦は荷台へ競うように上がる。 真っ先に自分の場所を確保し、下着も気にしない、あられもない姿で座りこんだ若作りの女が、隣の娼婦になにやら耳打ちをした。 「ほんとだ。なによあの手、気持ち悪い」 「どんな男と寝たら、あんなガキができるのかしらね。やだやだ」 リリンを指さしての心ない嘲りが続く。 「黙れ」 リリンが憤怒を表す前、アルスの髪が口汚い女たちの首に巻きついた。娼婦は目をひんむいただけで、驚きが強すぎて暴れることさえできずにいる。もちろん締めつけているわけでなく、脅し程度に絡めているだけだが。 「お前らに生きる価値を俺は認めん。ここで、森の肥料にしてやったほうが世のためだ」 「いいよもう、アルス。みんな驚いてるし」 「命拾いしたな年増。魔道士、夜道だから気をつけていけ。ではオフレイム殿、また後日」 ようやくに娼婦は解放され、車輪が回転を始めたその刹那、森が揺れた。竜巻の直撃を受けても微動だにさえしそうにない大木が、小麦のように激しく左右し、大地は固い液体とでも言わんばかりに上下に波うつ。 「王狼っ!!」 リリンとアルス、その他も同時に叫んだ。 闇の中に浮かび上がるのは、空に浮かぶ満月よりも巨大に輝く瞳二つ。 「乗るんじゃ! 馬を止めい、止めんか!」 御者となった魔道士は狂ったように鞭を叩きつけるが、必死に疾走しているつもりでも、揺れる道では馬車の速度が上がるはずもない。二人なら、追いつける距離にまだいた。 「逃げるぞリリン、リリン!」 しかし、リリンは向かう。すべてを捨てて向かっていく。憎んでも憎み足りない、鎧獣の王者に。意味をなさない声で叫びながら、魔法をぶつけるべく左腕を突き出したが、こらえきれない涙と舌打ち以外には、なにもリリンから溢れはしなかった。 「どけっ!」 リリンを突き飛ばしアルスは三本の剣を重ねて受けた。力強く容赦ない、銀色で巨大すぎる前足の一撃を。真上からの打ち下ろしを、どうにかこうにか防いだが、王狼はそのまま、アルスを押しつぶそうと腕に体重をかける。身体は弓状に反り、足は大地にめりこむ。 「くそっ、たれが」 徐々に、アルスは圧され始めた。渾身の力で抵抗するものの、膝は折れ、身体の震えが限界間近を告げている。 「アルスっ!」 王狼のもう一本の足が横殴りにアルスを吹き飛ばした。上からの圧力を防ぐことで手一杯、わかっていても、どうすることもできなかった。連なる木の壁にぶち当てられたアルスの身体は重力に沿って落下し、そのまま動かなくなった。 駆け寄ろうとしたリリンだが、足が、いや指先さえも動かせない。王狼の金の瞳に射すくめられ、恐怖に固まる。そんな無力な少女にも王狼は容赦なく、爪も鋭い前足をかざす。 殺される……! リリンは反射的に目をつむり、身体をぎゅっとこわばらせた。 そのまま気を失い、リリンはその場に崩れた。王狼の攻撃……と表現するのも少しはばかられる、指での軽い弾きをまともに受けて。 |