第三章


 たがの外れた魔法に敏捷な獣の体捌き。けれども、体力だけは少女のものに他ならない。若いだけに疲労の自覚は薄いものの、身体は正直に休息を求める。
 リリンが重い瞼をどうにかこうにか開いたのは、太陽が中天をとっくにやり過ごした後だった。それも、空腹に邪魔されてのこと。
「うーっ、お腹空いたよー。ご飯買ってきて、助手一号……アルス?」
 目をこすりながら見回した洞窟内に、長髪の助手の姿はなかった。
「どこいったんだろ? しょうがないわねー、も一回寝よ」
 逃げた、などとは微塵も思わず、リリンは再び寝そべった。並べて置いてあった三本の剣が視界に入らなくとも、同じように二度寝を決めこんだに違いない。
 信頼というには遠いが、それに類似した感情がリリンには芽生えていた。まだ、二葉程度ではあったにしても。
「似合わないよね、暗殺者だなんて。ぜんぜん弱っちいしさ。幼稚園の先生、うん、きっといい」
 子供に長い髪を揉みくちゃに引っ張られる姿を想像したリリンは、優しい風に向かってくすりと笑った。吹きこむ風の体温からして太陽は、昨日までの苛烈さをひそめているようであった。なんにせよ、まどろむには絶好の気象条件が揃っている。
 大きなあくびを一つしてリリンは、柔らかい毛に覆われた左腕を枕にした。頬に当たるふさふさの毛並みは、とても心地よい。
 王狼の呪いを身に受けた当初、リリンは腕を肩口から切り落とそうと考えた。できないことではない。
 けれど、やめた。痛かったから。やはり自分の腕なのだと痛みが教えてくれたから。
 もちろんリリンは自分の腕を取り戻したいと思っている。特にこの季節、手袋に包帯なんて蒸れてかなわない。それは間違いない思いだが、
「この感触も捨てがたいかも」
 実は結構、気に入っていたりした。


「なんだよ、まだ寝てるのか」
 半分眠っていたリリンの耳に、疲れを帯びたアルスの声が届いた。
「無邪気な寝顔して……こうしてると、かわいいのにな」
「もっと言って言って」
 目を閉じたまま、リリンは甘えた声で続きをねだった。
「……いつもはがさつで、小憎たらしくてわがままで」
「黙ってよし。どこ行ってたの?」
「ほら、土産だ」
 上半身を起こしたリリンに輝く石が放られた。クルミの大きさは充分にあるだろう。
「輝幻石じゃない! こんなに大きいの二つ」
「助手の仕事をしてきただけさ」
「溶解したの? 無理しちゃだめだって言われてたのに」
「偵察のついでだったからな」
「ってことは、レッドベリルの屋敷に行ったわけね」
 そうだ、とアルスはうなずきを返した。
「どうして起こしてくれなかったのよ。せっかく怪盗リリンの名前を、世間の皆々様に響き渡らせるチャンスだったのにー」
「また、予告状でも使うつもりだったのか?」
「派手にビラもまこうと計画してたの!」
「ビラねえ……リリンは王狼を殺るために輝幻石集めてるんだよな。なんで怪盗にこだわる? 輝幻石さえ奪えれば強盗だろうがなんと呼ばれようが、関係ないだろ」
 うっ、とリリンは言葉を詰まらせた。
「……言っても、笑わない?」
「あまり自信はないが、努力はする」
「もしね、もしあたしが死んだら」
「殺されたって死ぬたまか」
「ちゃちゃ入れないの。あたしの母さん、旅の民だった。輝幻石や宝石を掘り出しては売りさばく、流浪の生活してたわ。でも、王狼に……」
 喉に絡もうとした悲しみを咳で払い、リリンは続けた。
「ねえ、死んだらそれで終わりだと思う?」
「土に還る、それだけだ。地獄なんてあったら、真っ逆さまに落ちるんで困るしな」
「ふふ、あたしもそう思う。でもね、誰かが覚えてくれてる間は死んでないとも思うの。そりゃね、普通に生活して寿命を終えて、家族や友達に思い出してもらえるのが一番よ。でも、あたしがしなくちゃいけないのは、王狼の抹殺。泥棒なんて危ない橋渡ってるんだし、いつ死んだってしょうがない。だったらせめて、あたしが生きてたって証だけでも残したいってね。強盗なんて悪名はやよ。おかしいでしょ、無理しないで笑ったら」
 気恥ずかしさが一息に言葉を並べた。そんなリリンに対しアルスは、真剣な面持ちを崩すことなく、
 笑うわけないだろ、と静かに答えた。
「だが、リリンは暗殺者だと思われてるんだぞ。なにをしたって怪盗には戻らん。無駄だ」
「あっ、忘れてた、ってアルスのせいじゃないの!」
「だから悪いと思って輝幻石を盗んできたんだ。いまのところは、それで勘弁してくれ」
「それはまあ、こんないい輝幻石……ちょっと待ってよ。溶解したまま、これ盗んだの?」
「ああ。衛兵が後ろ向いた瞬間。リリンの憧れる怪盗の仕業ってやつかな。お前が取ったの俺じゃないの、大騒ぎになったぞ」
「でもさ、溶解するときって裸になるわよね」
「そりゃそうさ。服だけが歩いてたら……それはそれで怖い気もするが」
「つまり、服とかまでは透明にできないってことでしょ。ってことは、盗んだ輝幻石も空中に浮いたりして見えるんじゃないの?」
「正解」
「輝幻石が空中飛んで逃げたりしたら、目立ちまくるじゃないのよ。もしかしたら陽炎を疑うかもしれないし。まずいでしょ、それ」
「夏のハムスター作戦だ」
「はいっ? な、なにそれ」
 いぶかしがるリリンにアルスは、自分の頬を指でつついた。
「口のなかに入れたんだよ」
 リリンは弄んでいた輝幻石を、汚いとばかり放り捨ててしまった。
「ちゃんと洗ったって」
「口なら見えないの? 手に握ったんじゃだめなの?」
「俺にできるのは溶解っていう、結果を生み出すことだけだ。ほとんどは先人から伝えられた、体験談で判断してる。手はだめだ。でも、胃に入った食べものが見えないように口なら問題ない」
「原理っていうか、仕組みはわからないんだ」
「空気と同化するとか、色素を交換するんだとかは言われてるが、本当のところは誰にもわからん。人間がどうして二本足で歩けるのか。牙や刺も毒もない、他の動物に比べて、どうしてこんなにひ弱に生まれてくるのか。それを尋ねるのと同じさ」
 屁理屈に近い言葉にリリンは、わかったようなわからないような顔をした。
「そんないいかげんなことで、溶解するとき怖くない? だって、自分も自分の身体が見えないんでしょ」
「慣れたよ」
「うーん、あたしはやだな。戻れなくなったりしそうだし」
「そう思うのもわかるがな……」
 翳ったアルスの表情。しかしそれは、リリンには気づけないほどの微妙な変化でしかなかった。
「それで、屋敷の様子はどうだった。伯爵はいたの?」
「表向きは昨日と同じ。修理の職人が数人出入りしているだけで静かなもんだった。俺の見た範囲では、あそこに伯爵はいない」
 アルスの見た範囲=すべてである。どこにどんな隠し部屋があろうが、見逃すことなどありえない。
「どうするのこれから?」
「相手は半仮面卿だ。手がかりがつかめるとしたら執着著しい、輝幻石絡みだろうな」
「そうね」
「プルルたちにその線で探るように言ったから、しばらくは待つしかない。ふう、さすがに疲れた。今日ぐらいは柔らかいベッドで眠りたいもんだ」
「それは多分、だいじょうぶ」
「多分ってとこが引っかかるんだが」
「アルスがぼろを出さなければね。もしかしたら、半仮面卿の居所もつかめるかもよ」
「本当か?」
「ふふ、協力する気が沸いてきたでしょ。はい、このお金で馬車を借りてきて。一番高級そうに見えるやつよ。それと、簡単につまめる食べ物も」
「なんで、わざわざ馬車がいるんだ?」
「お嬢様ですから」
「お嬢様……ますます不安だ」
「あたしはその間に、そこらで水浴びして来る。薄汚れたお嬢様なんて、さまにならないし。覗いたりしたらひどいからね」
 しゃきんと爪がリリンの指から伸びる。
「金もらっても見たかないよ」
 と憎まれ口を叩いた顔面に輝幻石がめりこんだ。ナイスなコントロールである。
 普段は寡黙だというアルスが、この少女相手には一言多くなる。それもとても、楽しそうな表情で。


「じゃーん。どう、似合う似合う?」
 旅装束から一転、淡い緑色のドレスに身を包んだリリンは、あれこれ飾りの多いスカートを風にひらめかせながら、くるりと一回転して見せた。瞳に合わせたコーディネートらしい。
「高そうなドレスだな」
 馬を繋ぐアルスは横目で一瞥しただけにとどまり、興味なさげに答えた。
「ちょっとアルス。女の子は服とか髪形を誉めてもらうと、とーっても嬉しいものなのよ。そういう冷たい態度してると、そっちこそ彼女なんかできないわよ」
「ふむ、そういうもんか。悪かった」
「それでは、もう一回訊いてあげましょう。どう、かわいい?」
「まあまあだな」
「しばくわよ!」
「しばいてから言うなよ!」
 それも、グーで頭を思い切りしばかれたアルスであった。
「強制するな強制を。心のこもってない世辞よりは、ずっとましだと思うぞ」
「ふんだ、女心のわかんないやつ! 一生寂しく、ひとりで暮らせばいいんだわ」
「一応、許嫁はいるぞ。引退したら、すぐに結婚しなきゃならん」
「嘘、そんな物好きいるの」
「陽炎は血を濁せないんでな。早くから相手を決められるんだ」
「普通の人間と結婚すると、子供に能力が遺伝しないってこと?」
「溶解能力を持つ可能性が半分になるらしい」
「かわいそうね、相手の女の人。世界一不幸になるってわかってるのに」
「俺もそう思うよ。飯、サンドイッチでよかっただろ」
 うざったそうに話を切り上げると、アルスは馬車から紙袋を取り出した。
「うん。飲み物は?」
「オレンジジュースか牛乳」
「牛乳嫌い。あたし、オレンジジュースね」
「牛乳は嫌いか、なるほど」
「なーに深々と納得してんのよ」
「いや、もう少し背と胸があったら、そのドレス……もっと似合ったろうな」
 遠回しの、いかにもらしい誉め言葉であった。誉めろ誉めろと言ったくせに、いざ誉められるとリリンは、真っ赤になってサンドイッチをぱくつくしかできなかった。


 穏やかに石畳を打っていた蹄の音は規則正しいテンポを徐々にゆるめ、小さないななきと共に止まった。
 驚くほど長髪の御者は手綱を門番にあずけると、急ぎ飛び下り、うやうやしく車部の扉を開いた。純白の手袋に覆われた手が、ゆっくりと差し出される。
 御者はその手を取り、足元に気をつけなさいますように、と女性が馬車から下りる手助けをした。
「大使殿は、いらっしゃいますか?」
 口元を羽扇子で隠しつつ、新緑のドレスをまとった令嬢は気品に満ちた口調で応対に出た役人に問いかけた。
「これはこれは、リルお嬢様。おや、今日はお付きの方もご一緒ですな」
「ええ。一人歩きをすると皆が心配するものですから」
「いや、その心配はごもっともなこと。すぐに大使を呼んで参りますので、応接室でお待ち下さい。君、お嬢様をご案内して」
「行きますわよ、アルスノバ」
「はい、お嬢様……よく化けたもんだ」
 小さくアルスは正直な感想をつぶやいた。
「なにか言いましたか?」
「いいえ、お嬢様。足元には、くれぐれもお気をつけ下さい」
 襲い来たハイヒールの踵を、うまくかわしてアルスは頬笑んだ。敷きつめられた大理石が、甲高く鳴り響いた。


 街のど真ん中に位置する、呆れるほど金をかけましたよと声高に主張でもしているような建物。それがリグラフト商国大使館である。
 厳重な警戒に守られるこの大使館に、一般市民が近づくことは許されない。そのためリリンは慣れぬ令嬢に身を変えたのだ。
 大陸には現在、国という単位は存在しない。数百年昔にたった一度、大陸を統一した王が国名を定めたが、その威光も数代で費えた。
 これも原因は森海にあった。大陸の中央、莫大な面積を覆う森海は、はっきり言って邪魔なのだ。兵を動かすにもいちいち遠回りを強いられ、大陸の反対で蜂起が起これば鎮圧も並大抵なことではない。
 現在はその統一王に爵位を与えられた子孫、レッドベリル伯爵のような地方領主が、分割支配しているのが実状である。
 その例外に位置するのがリグラフト商国。すべての地方領に友好大使を派遣するなど、外交手腕を発揮している。
 それはこの星にあるすべてを売買するという――金次第では鎧獣さえもその対象である――徹底した商売根性の賜物であり、なにより自前の領土をわずかも持たないという特殊性があるからこそ、なせるわざでもあった。
 一般の商会との違いは要は莫大な経済力。それを背景にした軍事力である。いくつも経営されている傭兵派遣組織は有事の際、リグラフト商国軍事部隊へと姿を豹変させるのだ。
 領土を持たない以上、国ではないという異論もあるにはあるが、もしも商国が土地に色気を出せば、いまの世界地図は大きく書き換わってしまうことは疑いない。
 商国の呼び名は一種の尊称。あなたがたは、わたしたちより上の立場に存在しますよという、へりくだった意思表示なのである。あらゆる警戒を含めての。


 用心しなければ、小柄な身体ごと埋まってしまいそうなほどクッションのきいたソファーに腰かけて、リリンはアイスティーで口を潤していた。
「牛乳、嫌いなんじゃなかったのか? そんなたっぷりとミルク入れて」
 その傍らに突っ立つのは、もちろんアルス。レッドベリル伯爵の手がかりを得る可能性を餌に、渋々お付きの護衛を演じることとなってしまった。
「甘いミルクティーは大好物なの。ん、来ましたわよ、アルスノバ」
「お待たせしました、リルお嬢様。おお、相変わらずお美しいことで」
「タイラブ殿も、お元気そうでなによりです」
 デザインこそ抑えてはあるが、生地自体が光り輝くラメ素材の衣服に身を包んだ中年の小男が、満面に笑みを浮かべ入ってきた。
「それで本日は、いかようなご用向きで?」
「アルスノバ、あれを」
 羽扇子で指図されたアルスは内心を隠すよう曖昧に頬笑みながら、取り出した包みをテーブルで開いた。盗んだばかりの輝幻石が静かに転がり出る。
「今日は二つしかありませんけれど」
「これは素晴らしい! この大きさ、この透明度。このような一級品を、いつもご提供いただいて」
「いいのです。それで人が鎧獣に怯えることなく、暮らせるようになるのですから」
「よろしいでしょうか、お嬢様」
「なんです、アルスノバ?」
 リリンの眉間がわずかに寄った。アルスはただ黙っているだけ、そう打ち合わせていたというのに。
「大使殿にお伺いしてくるよう、大旦那様から申し使ったことがあるのです」
「おお、なんでも聞いて下さい」
「いいですわ。お話しなさい」
「お嬢様のご説明によりますと、リグラフト商国は鎧獣を、なかでも王狼を抹殺すべく輝幻石を集めているとのことですが」
「その通りです。人類の仇敵、鎧獣をこの世界から消し去るために、大量の輝幻石を集めているわけでして。これは三年も前から進めている、壮大な計画なのです」
「よもや、慈善事業ではありますまい。商国は利のみで動くお国柄ですし」
「おやめなさい、アルスノバ。失礼ですよ」
「いえいえ、おっしゃる通りです。我々の終局的な目標は森海にあります。あそこには、膨大な量の輝幻石が眠っているのですからな。鎧獣を滅ぼし輝幻石を手に入れる。一挙両得というわけですよ」
「それを聞いて安心しました。そうであれば裏切られる心配はありますまい」
 辛辣とも取れる皮肉に対し、タイラブは奥歯を見せて笑った。
「いや、お嬢様。いい護衛をお持ちですな」
「ええ、まあ……」
「それでは次の質問ですが、輝幻石をどうやって使うのです? 輝幻石が鎧獣に通じないのは半ば常識のはず」
「そのことは以前、お嬢様にはお話ししましたが、ああ丁度いい。今宵、積み重ねた研究の成果を発表する催しを開きます。森海への拠点を建造する、壮行会を兼ねましたな。その夜会にお二人をご招待致しましょう」
「自分の目で見ろと」
「そのほうがわかりやすいですからな」
「よろしいでしょうか、お嬢様?」
「ええ、わたくしも見てみたいですわ」
「では、奥の部屋でしばしお休み下さい。馬車の準備が整い次第、迎えを遣わしますので」


「ほんともう、勝手に話したりしないでよ! いつぼろが出るか、気が気じゃなかったわ」
「んなでかい声出していいのか、リルお嬢様」
 うーっ、と低く唸りながらリリンは、広く華美な部屋の中央にある、年代物のテーブルに腰を跳び乗せた。アルスは立ち聞きでも気にしているのか、入口の扉に背をぴったりとつけ、もたれかかっている。
「あの大使、タイラブとか言ったか。気に入らんな」
「そう? 人のよさそうなおじさんじゃない。にこにこしててさ」
「愛想笑いの下に、どんな面を隠してることやら。関わりたくないタイプの人間だ。おだてられたからって気を許してるんじゃないぞ」
「わかってますよーだ」
「だが、当たりかもしれん」
「当たり? 伯爵のこと」
「ああ、予想を越えてうさん臭くはあるがな。鎧獣抹殺の計画は三年前からだと言った」
「ええ、らしいわ」
「レッドベリル伯爵が、半仮面卿に姿を変えた時期と符合する」
「じゃあ、裏で糸を引いてるのが半仮面卿」
「顔を焼かれた半仮面卿の恨みと、商国の利が一致したってとこだろう。まだ時間はあるな。ざっとでいい、鎧獣を倒せるっていう輝幻石の使い方を教えてくれ」
「もうすぐ見れるんだから待てばいいじゃない。常識的なことよ」
「いいから、とにかく聞かせてくれ」
 しょうがないわね、とリリンはめんどくさそうに首の骨を鳴らした。
「魔力抽出溶液があるでしょ。あの水みたいな透明なやつ」
「ああ。あれが発明されたおかげで」
 壁のスイッチにアルスが手を触れると、室内は薄暗くなり、すぐに元の明るさに戻った。
「こんな便利な灯ができた」
「あのなかに輝幻石を入れると魔力を奪うかわりに、石自体は溶けてなくなるわよね。あの溶液を薄めてまず、輝幻石の表面だけを溶かすんだって。同じようにした輝幻石を特殊な技術でひとつに融合する。そうすると、大きな輝幻石ができるってわけ」
「ってことは、でかい輝幻石を作って兵器にするって寸法か」
「鎧獣に魔法が通じなかったのは、あの硬い皮膚のせいでしょ。大きな輝幻石ならそれだけ強力なわけだし、有効なのは当り前よね」
「理屈はそうだな」
 難しい顔のままアルスは顎に手を置いた。
「なにか気になることでもある?」
「輝幻石って、なんだと思う?」
「なにって、便利な石」
「じゃあ、なんでそんな便利な物が、いくつもいくつも埋まってるんだ?」
「なにがいいたいの?」
「たしかに輝幻石は便利で美しい。すべてを動かす動力にもなるしな。今度はあれだろ、馬が必要ない馬車ができるってんだろ」
「馬が引くから馬車でしょうが」
「いや、そりゃそうなんだが。その乗り物も、動力は輝幻石ってことだしな。同じように美しい宝石でさえ、魔法を増幅するわけでもなければ明かりを灯すわけでもない」
「そんなすごい力があるから輝幻石は高価なんでしょ。そこらの石ころなんて、なんの役にも立たないから誰も見向きしないわけだし」
「違う。なんの役にも立たないのが普通なんだ。そこらに転がってる石ころは、ある意味正しいんだ」
「まーた、わけのわかんないことを……」
「輝幻石が特別すぎるってことさ」
「でも、もともとは宝石と同じ扱いだったわけじゃない。それを人間が進歩して、秘められた力を発見したってだけで」
 リリンの言葉には筋が通っている。人類の進歩は様々な発見の歴史と言い換えてもよい。
「リリン、お前は輝幻石に温かみを感じたことはないか」
「温かみ?」
「宝石はたしかに美しい。でも、あれは本当にただの石だ。冷たいだけの鉱石だ」
 そこまで言ってアルスは腰の剣を抜いた。あの、紫水晶に似た刃を持つ長剣を。
「だが輝幻石は違う。もちろん、見た目も手触りも宝石と同じだって言うやつのほうが多い。でも俺はこの剣に命を感じるときがある」
「ん、あたしも手の輝幻石には命を感じたことがある。ううん、いつだって感じてるわ。温かくて優しくて……母さんみたい」
 母という言葉に一瞬表情を固くしたアルスであったが、無言のままで剣を鞘に戻した。
「輝幻石を融合させるの、気に入らないのね」
「うまくは言えないが、輝幻石は俺たち人間の手にはおえない、侵してはならないものたったんじゃないかって、最近思えてな」
「でも、他に王狼を倒す方法がないんだから、あたしは……」
「責めてるんじゃない。それでリリンの呪いが解けるな俺も協力する。ただなんとなく、輝幻石が不憫な気がしたんだ。愛でられることもなく利用されるだけで」
 うん、とうなずいたきり、リリンはうつむいたまま、緋の輝幻石が埋まる左手を何度も何度も撫でた。
「そう考えこむな。リリンは呪いを解くことと、両親の仇を討つことだけ思ってればいい」
「生きてるわよ、母さんだけは」
「そうなのか。昨日の口ぶりだとてっきり」
「義理の母さん、継母だけどね。でも、あたしをとっても愛してくれた。父さんが死んだときも、ずっと側にいていいって、そう言って引き取ってくれたの。嬉しかった」
 思い出のなかの幸せに、リリンの頬は自然とほころんだ。
「だけど、王狼に呪われてから眠ったままで、目を覚まさないの。あたし、この腕そんなに嫌いじゃない。でも、母さんを助けるには王狼を殺して呪いを解かないと。急がないと……いつなにがあるか」
「タイラブは研究成果を発表するって言ったんだ。もう、すぐにでも王狼は殺せるはずさ。準備は整ってる」
「うん、ありがと」
 根拠の薄い慰めの言葉ではあったが、それでもリリンには嬉しかった。
「っと、迎えが来たようですよ。リルお嬢様」
「わかってよ、アルスノバ」
 微笑みを交わし、リリンは椅子へと身体を移し、アルスは素早く扉を離れ、リリンの後方を守るように位置した。同時に、ノックの響きが二人を呼んだ。


「随分と遠くにありますのね」
「ええ、境界林を伐り開いた僻地に研究所は建っています。万が一の事故に備えて、慎重になりませんと」
 ゆったりとした足並みとはいえ、馬車は随分と長い間細い林道を、沈み行く太陽を目指して進んでいた。いいかげんリリンも腰が痛くなってきたところである。
「事故? まあ、怖い」
「それほど危険な実験ということですか、タイラブ大使?」
「いえいえ、そんなことはございません。よそ様の領地で問題を起こすわけには参りませんので、万全を尽くしているだけで」
「本当ですの?」
「ご安心を。さあ、ここを曲がれば到着です」
 なだらかな右カーブが切れるとそこには、古城を想起させる真っ白な建物が威容を誇っていた。これが研究所とは、にわかには信じがたい。
 深窓の令嬢の仕種を崩さず馬車を降りたリリンであったが、舗装されていない、でこぼこの土道は慣れぬヒールでは危なっかしいことこの上なかった。
「では早速、地下の実験室へご案内します。わたしの後へ付いてきて下さい」
 建物の内部もまた、散財が明らかな造りをしていた。一つ一つが小さな太陽と言わんばかりにきらめくシャンデリアは、真昼よりも明るい世界を作り出し、紅い絨毯が敷きつめられた廊下には所狭しと置かれた彫刻や花生け。壁にはもちろん、高そうな絵画が連なる。
 お世辞にも趣味がいいなどとは、口にできそうもない光景であった。
「これに乗っていただきます」
 突き当たりの壁を指してタイラブは、にこやかな顔でリリンを振り返った。
「これと言われましても、ただの壁ではありませんの?」
 予想通りの返答だったのだろう。タイラブは表情をさらにくしゃくしゃに崩して、胸を張った。
「しばしお待ちを」
 タイラブの指がリズミカルに三度壁を弾くと、それに応えて壁が開いた。
「これは……?」
「リグラフト商国の誇る新商品。自動昇降機でございます。これですと、階段を登り降りする労力を大幅に省くことができるのです。特に、ハイヒールを履かれた女性には、すこぶる好評でしてな。さあ、どうぞどうぞ」
 促され、恐る恐る自動昇降機なるものにリリンは足を踏み入れた。
「地下の三階が研究施設です。すぐに着きますよ、本当にすぐですからね」
 よほどこの新商品が自慢なのであろう。口元に唾を溜めつつ熱弁をふるうタイラブは、〈3〉と書かれたボタンを押した。
「きゃっ!」
 かすかな浮遊感に驚いてリリンは、反射的にアルスにしがみついた。
「ははは、だいじょうぶです。落下のスピードが起こす悪戯ですよ。すぐに慣れます、と言いたいところでしたが到着しました」
「もう?」
「皆様同じように驚かれます。さあ、こちらへどうぞ。お二人には特等席でご覧いただきますので」
 さすがに研究施設らしい、無機質で薄白い通路を進み、タイラブの言う特等席へと二人は通された。そこは、いわゆる司令室であった。一段高い場所に設置された、研究施設の隅々を見渡せる場所。
 半球型にガラス張られた向こう、正面にある壇上には、なにやら仰々しい実験器具を用意する研究員が数名。
 一方、下のフロアには溢れんばかりの美しい衣服が押し合うようにしながら、いまから開始されるプレゼンを待ちわびていた。
 下の窮屈さに比べれば、少し遠くはあるが、たしかにここは特等席。リリンの視力なら、男たちの白衣の皺だって数えることができる。
「皆様、高いところから失礼致します。今日は足をお運びいただき、まことにありがとうございます。ではこれより、輝幻石の融合実験を開始致します。始めてくれ」
 拡声器を通した命令が下り、研究員は深々と頭を下げた。
「まず、この緋の輝幻石を八倍に薄めた魔力抽出溶液に浸します」
 淡々と抑揚のない声の主が言葉通りの行動を行った。
 ああ、もったいないわ、などといった、悲鳴にも似た嘆息が下のかしこで発生した。親指の爪ほどの大きさの輝幻石でも、一生見ることさえできない人間のほうが多いのだ。
 正十六面体だった輝幻石の角がすべて溶け、滑らかな曲線が生じると、輝幻石はシャーレに取り置かれた。
「同処理を施した蒼の輝幻石とこの緋の輝幻石二粒を、こちらの液体に入れます」
 机からせり上がり出たのは水槽に並々と注がれた、毒々しい色をした赤黒い液体。
「この液体の正体は動物の血液を幾種も配合したものです。種類や配合比率は極秘事項ですので、悪しからずご了承下さいませ」
 ピンセットに摘まれ、丸く形を変えさせられた輝幻石が二つ、静かに沈められた。すると血液は見る見るその量を減らしていき、十も数えないうちに水槽は干上がってしまった。
「完成です」
 うねるようなどよめき。リリンもアルスも、息を飲んだ。声にすることさえできない。
 空になった水槽の底には、鶏の卵を一回りも大きくした、それも、真ん中から半分が紅、もう半分が蒼という、世にも美しく不思議な石が生まれていたのだ。
「以上で実験を終了致します」
 万雷の拍手は当分、鳴りやむことを知りそうになかった。
「素晴らしい、素晴らしすぎる!」
「この技術があれば小さな輝幻石を集めて、何倍もの富を生み出すことができる! いや、商国に出資して本当によかった」
 あちらこちらから上がる称賛の声を聞いてタイラブは、満足そうにうなずいた。
「輝幻石は価値も力もその大きさに比例します。商国はこの輝幻石を武器に、森海制覇の拠点となる砦を築くことに致しました」
 再度のどよめきを読んでいたかのようにタイラブは、そこで一呼吸置いた。
「ささやかではありますが、その壮行を兼ねた宴の用意をしております。それでは皆様、会場の方へ」
 自分の演説に酔いでもしたように、タイラブは大きく何度も身体ごとうなずいた。
「すごいですわ、タイラブ殿。この方法で大きくした輝幻石ならば王狼も」
 リリンの声も興奮で震えていた。地を隠すのに相当な注意を要するほど。
「そう言っていただけて、このタイラブ、大いに面目を施しましたぞ。さあ、立食の簡素なパーティーですが、ごゆっくりお楽しみ下さい。貴族の子弟も大勢おいでですので」
 喜々とした雰囲気がこの建物すべてを覆い尽くしているようであった。一段と目つきの鋭くなった、長髪の従者を除いては。


 華やかとしか形容しようのない会場であった。レッドベリル伯爵の屋敷も相当なものであったが、晴れの席ということもあり、より艶やかさが加わっている。
 タイラブに連れられたリリンが大広間に現れると、にわかに場がざわついた。
 主催者の登場に騒いだのね、そう思ったリリンであったが、どうも視線が集中している気がする。状況に合点がいかず、小声でアルスに尋ねようと振り返ったが、お付きの従者は、なにやら入り口で揉めているではないか。
「なにをしているのです、アルスノバ?」
 急ぎ身を翻し、駆け寄ったリリンの問いに衛兵が答えた。
「いえ、会場内は帯剣は禁止となっております。ですから、こちらにお渡しいただくように申し上げている次第で。それに、そのような格好はこの場にふさわしくないと」
 アルスは出会ったときのまま、フリーの傭兵と同じ出で立ちである。リリンは化けたが、アルスにはそのための衣装も、その気もありはしなかった。
「それはこの者が最も動きやすい服装をしているからです。帯剣もわたくしに万一のことがないように、常に許可しておりますの。いいですわアルスノバ。そのままお入りなさい」
「しかしですな」
「もしものことがあったとき、あなたがたでは頼りありません。それとも、すべての責任を負えるとでも? どうなのです!」
 黙りこんだ衛兵に下がるよう目だけで指示し、リリンはアルスの手を取った。
「行きますわよ……なにすねてるの?」
「べつに。なかなかの迫力だったな」
「盗まれでもしたら大変でしょ。なんてったってその剣は、あたしのもんなんだから。それより、なんだかこっちに視線が集中してる気がするんだけど」
「それはまず、リリンが特等席であの実験を見物したからだな。大使とも親しげだから、特別な存在だと思われてるってわけだ」
 ああ、とリリンは納得のうなずきを返した。このあたり、人の心理を読むにはまだ経験が不足しているということか。
「次に、いまの啖呵だ。威勢のよさが、大人しすぎる令嬢しか見たことのないボンボンには新鮮なんだろうさ」
 アルスの目が悪戯っぽく光り、顎がかすかにリリンの後方をしゃくり差した。
 へ? と振り返った向こうには、貴族の子弟とやらが大挙して押し寄せていた。
「では、がんばって下さいね、リルお嬢様」
「あっ、ちょっと待ってよ、アルス」
 慌てるリリンを差し置いて、アルスは壁に寄りかかると腕を組んだ。高見の見物を決めこんだらしい。
「あとで、ぶっしばいてやるんだから」
 物騒な唇の動きを終えると、リリンは最上級の造り笑顔を若い男たちにして見せた。
「なにかご用でしょうか?」
「いやその、お飲み物などいかがですか?」
「はい、いただきます」
 などと答えると、グラスの一ダースあまりがリリンの前に差し出された。まんざらでもないといった顔でリリンは、その一つを手に取った。
 口をつけると予想したとはいえ、アルコールの広がりを体内に感じる。
「お名前はなんと?」
「リルと申します」
「美しいお嬢様は、お名前まで素敵ですね」
 その通りだ、などと見え見えの追従がリリンを囲む。
「ありがとうございます」
 変わらずの笑顔で、リリンは周囲すべての男たちに視線を置いて行った。どの顔もそれなりに整ってはいたが、いま二つ三つ、ぴんと来るものはなかった。
 この時点で、会場の人だかりは二極化していた。若い男たちは軒並みリリンに興味を奪われており、その他の男性や婦人はタイラブを取り囲んで、先程の実験がどれだけの利を生むか、しつこく熱く語り合っていた。
 会場の雰囲気から浮いているのは重厚な鎧をまとった、この席の主役である、壮行される立場の兵士たち。彼らはひたすらテーブルに並ぶ、見た事すらないご馳走を頬張るのみ。
「豪気なご主人をお持ちですな」
 考え事でもしていたのか、腕を組んだままうつむいていたアルスに太い声がかけられた。見ると、かなり年季の入った戦士がアルスにグラスを差し出していた。
「いただきます」
 頭を下げつつグラスを受け取り、アルスは静かに口に運んだ。天然色のカクテルは男の舌には少し甘すぎた。
「信頼されていらっしゃるご様子ですな」
「いえ、そうでもありません。わがままで向こうっ気が強いだけで」
「ははは、ご謙遜を。あの目を見ればわかりますぞ。貴公を頼りきっている、そんな感じを隠そうともしてはおられん」
 複雑な笑みでアルスは応え、今度は質問の側に回った。
「ご老体も森海へ向かわれるのですか?」
「正確には、森海のわずかばかり手前、にですがな。気など進みはしませぬ。しかし、命令とあらば断わることはできますまい」
「たしかに。危険な任務ですが」
「もちろん覚悟の上。どうやら我が主君は、わしのような古首には飽きたようで」
 自嘲気味に老将はグラスをあおった。
「失礼ですが、どちらにお仕えされていらっしゃるのですか?」
「レッドベリル伯爵。いまは半仮面卿のほうが通りがよいようですがな」
 アルスの頭のなかで、溶けかけていた記憶が浮かび上がった。リリンとの一騎討ちで破れた、オフレイムこそが老将の正体であった。
「あまり、よい話と共には聞きませぬが」
「ごもっとも。しかし、それはわしが至らぬせいでしてな」
 それだけ言うとオフレイムは、きっと唇を結んだ。主君の悪態をつくわけにはいかぬとの、強い意志が見て取れた。
「ご老体のような方からの忠誠をお受けというだけで、伯爵様もやはり、ひとかどの人物ということがわかります」
「ありがたいお言葉を。痛み入り申す」
「いえ、事実を申し上げたまでで、あっ……」
「どうなされた?」
「いえ、うちのじゃじゃ馬が思い切り平手を食らわした姿が目に入っただけです。では、失礼します。縁があればまた」
 挨拶もそこそこに、アルスはリリンの元に駆け寄った。
「なにをされているのです?」
「だってだってこいつが、あたしのお尻触ったんだもん!」
 リリンは完全に素に戻っていた。人ごみをかき分けて包帯の腕を取ったアルスの鼻を、酒の匂いがついた。
「申しわけありません、皆様。お嬢様はアルコールにお弱いのです」
「弱くなんかないもん! ちょーっと、おかしな気分だけど」
「そういうのを弱いというのですよ、世間一般では」
「ああ、それもそっか。あたし、寝る」
 かくんと首をうなだれさせるとリリンは、アルスに寄りかかるや小さな寝息を立てた。
「お休みなさいませ。大使殿はどちらに?」
「おお、なんの騒ぎですか?」
「どこか部屋を一つ、お貸し下さい。お嬢様を休ませますので」
「わかりました、案内をつけましょう。どうぞこちらへ」
「ちょっと待て!」
 リリンに引っぱたかれ、大袈裟にうずくまっていた男が頬を抑えながら食ってかかった。打たれた頬が腫れているかどうかは、元が太っているだけに判断できかねたが。
「よくもやってくれたな」
「失礼しました。ですが酒席のこと。大目に見ていただきたく」
「ふざけるな! 大勢の前で恥をかかされ、この汚名をどうしてくれる」
 肥満した身体を揺らしながら、男はアルスに迫った。
「どうしろと?」
「こっちも一発、殴らせろ」
「いいでしょう。無論、お嬢様に手を上げることはなさいますまいな」
「ああ、お前でいいさ!」
 叫ぶが早いか、眠ったリリンを片腕で抱き寄せるアルスの頬が思い切り殴りつけられた。
 微動だにせず、拳を受けたアルス。手に握ったままのグラスからも、一滴の雫さえこぼれることはなかった。逆に、痛そうに手を押さえたのは肥満男。しょせん素人の拳、アルスに通じるはずもない。
「では、そういうことで」
「待て!」
「まだなにか?」
「その女、俺が介抱してやる。じっくりとな」
 下卑た笑いは、しかしほんの一瞬。グラスごと美しい液体を顔面に投げつけるや、アルスが鞘走らせた鋼の刃が男の頭頂部を見事にはげ上がらせた。
「調子に乗るなよ、下司が。リリ……お嬢様は、この命にかえてもお守りする。貴様のような腐った豚にこれ以上、毛先ほども触らせるものか!」
 血の混じった唾を、腰を抜かし失禁までした男に吐き捨て、アルスはリリンを優しく抱き上げた。アルスの前方にたむろっていた人ごみは、驚愕の面持ちを揃えて道を開けた。


「ったく、子供のくせに酒なんか飲むからこういうことになるんだ」
 ぶつくさと文句を垂れながら、アルスはリリンをベッドに寝かしつけた。口の中に広がる血の味が腹立たしい。
「うーん、もう食べられないけど食べるー」
 頭の一つでも小突いてやろうかと考えたアルスであったが、こんな寝言を聞いては、そんな気も失せてしまう。
「あれだけ脅せば、おかしなまねをする馬鹿もいまい」
 独りごちながらアルスは、そっとリリンの眠る部屋から抜け出した。あの実験を見せつけられ、漠然であった不信感が結晶、この研究所を調べる機会をうかがっていたのだ。リリンが酔いつぶれたおかげで、怪我の功名的に隙が手に入った。
 音のない動きで素早く廊下を移動する。目当ては先の自動昇降機。間取りはとっくに頭に入れていた。迷うことはない。
「この辺を三度、押したはずだが」
 スイッチが装飾に紛れているせいで手間取るアルスの後ろで、甲高い女声が音を紡いだ。
「なにをなさっているのですか?」
 低い舌打ち。相手が男ならば当て身を食らわせばすむことだが、アルスの性分からして女性に手荒な仕打ちは、なるべく避けたい。どう言い繕うか迷いながら、ぎこちない笑みが振り返った。
「……リリン」
 安堵と驚きの、いい具合にミックスされたため息が漏れる。
「えへへ、驚いた?」
「ったり前だろうが。声色使いやがって。それに、なんで起きてるんだよ?」
「酔うわけないじゃん、あんなジュースみたいなんで。なかなかの演技力でしょ」
「じゃあなにか、俺はリリンの演技のせいで殴られたのか」
「ちょっとは、ましな顔になったわね」
「お前なー」
「それに、ちょっとだけかっこよかったよ。もっとちょっとだけ、嬉しかったかな」
 はにかんだ瞳が、ちょっとどころではない喜びを浮かべてアルスを見上げた。
「なんだよ、その目は?」
「べっつにー」
「言っとくが俺は護衛を演じきっただけで」
「わかってるって。それより、探りたかったんでしょ、この研究所。だから酔った振りして、自由に動けるようにして上げたの。殴られたぐらい安いものよ」
「それは痛み入ります、リルお嬢様。じゃ、行くぞ」
「うん。で、どこへ」
「まずは自動昇降機に乗ってからだ。ええと」
「ほら、ここにあるじゃない」
 手袋の人指し指がスイッチを弾いた。
「そんな低いところか。さすがさすが」
「憎まれ口たたかないの。さあ、行きましょ」
 二人は並んで、商国自慢の新商品に乗りこんだ。
「見てみろこのボタン〈5〉まであるだろ。まだ地下があるってことだ」
「なるほどね。さすがによく見てるわ」
「リリンに誉められても、ぞっとせんな。〈4〉と〈5〉どっちが臭いと思う?」
「やっぱり、深いほうじゃないかしら」
「同感だ。ん、なんでしがみつく?」
「苦手なんだもん、あのふわっとした感覚。いいでしょ、こんなかわいい女の子が頼ってるんだから」
「特別だぞ」
 ぽんと頭に手を置いて、本当に少しだけアルスはリリンを引き寄せた。


「まいったな。こうも暗いとは」
 深い闇に、アルスの視線はさまよった。一筋の明かりもない世界では、目が慣れるにも限度がある。
「なに言ってるのよ、このくらい」
「見えるのか?」
「もっちろん。まったくしょうがないなー、手を繋いであげましょう」
 いつまでも恩きせがましい物言いをする娘である。
「猫みたいだな、リリン。軽い身のこなしといい、闇に強い目といい」
「にゃかにゃかのもんでしょにゃー」
「無理に語尾を変えるなよ……」
 あきれたようなつぶやきに小さな笑いが加わった。
「そんにゃにおかしかったかにゃ?」
「潜入なんてやばいことやってるのに、緊張もなければ恐怖もない。溶解してるときだって、こんな気分になったことはないってのに」
「あ、ここ段差あるよ。それ、リラックスしてるってこと?」
「リリンと一緒だと死ぬ気がしないっていうか、そんな感じだ」
「誉められてるんだか微妙なとこね」
「最大限に誉めてるつもりだがな。止まれ」
 強い引きつけに、リリンの軽い身体は飛ぶようにアルスの側に引き戻された。
「危ないじゃないの、なに?」
「壁の向こうに気配がする。扉か?」
「んーっと、ずっと壁みたいよ」
「好都合だ。気づかれる危険が少ない」
 アルスの手がリリンを離れ、腰の剣柄に置かれた。そのまましばしの沈黙の後、抜かれた輝幻石の刃は紫白の輝きを放っていた。
「なにするの?」
「まあ見てろ」
 美しく光る剣が、その切っ先を壁に当てるか当てないかで、固い金属がとろりと落ちた。まるで、バターに火を近づけたように。
「こんなもんでいいだろう」
 二つの覗き穴を開けて剣が鞘に戻される。
「すごいわ、その剣やっぱり。ん、最初から、それを灯に使えばよかったんじゃないの?」
「気にするな。おい、タイラブがいるぞ」
「え、どこどこ?」
 冷たさが気持ちいい壁にリリンはへばりつく。
「背中だが、あの金ぴかはやつだろう」
「多分ね……あっ!」
 思わずリリンは叫んでしまった。その口を慌てて押さえるアルス。タイラブの隣にいた男が鋭い視線で振り返った。顔の左半分を、銀の仮面に覆われた男が。
「どうかなさいましたかな?」
「いや……見せてもらおう」
「はい、それでは」
 タイラブはうやうやしく頭を下げ、リリンの視界から姿を消した。直後、けたたましく回転する歯車の音に続いて巨大な、巨大としか言いようのない輝幻石の集合体が、せり上がり出た。
 その大きさは、そこらの民家を軽くしのぎ、何色もの絵の具を白いキャンバスにぶちまけたように美しく照り輝いている。
 ただ、一つ気になるとすれば、巨大な輝幻石はあちらこちらがいびつにゆがみ、元の美しい輝幻石からは、ほど遠い形状になっているということであろうか。
「いくつ、つぎこんだ?」
「正確に、一万丁度でございます」
「頃合いか」
「そのようで。早く森海を制圧よと、上からも矢のような催促が」
「知らん。商国がなにを言おうが知ったことではない」
 半仮面卿は冷たくタイラブを突き放した。
「ははっ……」
「王狼を殺す。それだけだ。それさえ果たせば、あとは好きにするがいい」
 冷たい熱気。リリンはそんな、相反する雰囲気を半仮面卿から感じていた。
「わかっておりますとも。しかし、運搬などを考慮に入れますと、この大きさが限界かと」
「うむ。砦の建造にも、いくつか巨大な輝幻石を携帯させるそうだな」
「ええ、実験を兼ねまして。普通の鎧獣であれば頭蓋骨程度の大きさで充分だと」
「あれも連れて行くのか?」
「こちらも実験段階ですが、成功すれば多大なる戦力になることは疑いようのないこと。これでまた、傭兵組織が発展すると思えば笑いが止まりません」
「ふっ、まあよい。そろそろ戻れ。主人の姿がないと客が不審に思うだろう」
「では、わたしはこれで」
「輝幻石はこのままにしておけ。しばらく、眺めていたい」
「わかりました」
 小走りな足音を残しタイラブは姿を消した。
「もががもごげ」
 ずっと口を塞がれたままのリリンが、苦しそうに雑音を発した。
「悪い悪い。なんだ?」
 けほけほと、小さく咳を数度して、リリンはじっとアルスを見つめた。
「チャンスよ、殺さないの? いま、ひとりっきりだから溶解しなくてもいいし」
「いいのか? いまやつを殺れば、王狼を抹殺するって計画自体が頓挫するかもしれんぞ」
「そ、それは……困る。とっても困る」
 だけどアルスのためだし、そう言いかけたリリンの頭を、ぽんぽんとアルスは撫でるように叩いた。
「いいんだよ」
 優しい優しい、響きだった。
「もう少し、泳がしてみよう。まだ、期限まで日はあるしな」
「……うん、ありがと」
「よし、さっさと戻るぞ。怪しまれてないとも限らん」
「また手、繋いであげよっか?」
 いらないよ、そんな言葉が返ってくるとばかり考えていたリリンの右手が、そっと包まれた。


「おや、どちらへおいでだったのですか? 部屋へ参りましたら、いらっしゃらないもので心配しておりました」
 あと少しで部屋という廊下の交差する場所で、まずいことに二人はタイラブと行き合ってしまった。
「いえ、お嬢様が気分が悪いと申されましたので、洗面所を探しておりました。なのですが、情けないことに迷ってしまって」
「それは仕方ありません。わたしでさえ、迷うことが度々なのですから」
 とっさの言い繕いをタイラブは微塵も疑いはしなかった。
「それでタイラブ殿、わたくしになにか御用事でも? わざわざお訪ねになるなんて」
「はい。正確にはお嬢様にではなく、こちらのお付きの方に、アルスノバ殿でしたか、お願いしたいことがありまして」
「アルスノバに?」
「ええ、そうなのです。ここで立ち話もありますまい。詳しいことはお部屋のほうで」


 長椅子に座った三人は、タイラブの指示で運ばれたコーヒーを一口二口すすった。
「それで、わたしにご用件とは?」
 苦さを表情に隠しもしなかったリリンにかわり、アルスがタイラブを促した。
「さきほどの抜刀はお見事でございましたな」
「見苦しい姿をお見せしてしまって、恥じ入る次第です。剣を握ったこともなさそうな相手に、つい」
「いえいえ、あれこそ護衛の務め。願いというのは他でもありません。アルスノバ殿の剣術を見こんで森海への拠点建造計画、その護衛に加わっていただきたく思いまして」
「それは困ります。わたしはお嬢様だけの護衛です。この世に他に、守るべきものなどありはしません」
 よどみなくアルスは忠実な配下の台詞を並べた。
「そこをなんとか、曲げてお願いしたいのです。これはオフレイム、ああ、明日同行する護衛隊長の名前ですが、かの老将たっての願いなのです。なんでも、アルスノバ殿とは宴の席で挨拶を交わし、またあの動きを目の当たりにして、是非とも手助けをして欲しいと」
「あのご老体がそんなことを。レッドベリル伯爵様にお仕えされているそうですが」
「ええ、長きに渡り片腕と信頼されていたそうですが、なぜか数年前に出奔しましてな。昨年また伯爵様の下へ。若い頃はそれはもう、知らぬものがいないほどの猛将で。異称がなんとかいいましてな。炎がどうこう」
「……一晩、時間を下さい。お嬢様と相談してからでないと、お答えはできかねます」
 タイラブは軽く首を上下させた。
「では、明朝ご返事をいただきに上がります。わたしはこれで」
「大使殿、一つお願いがあるのですが」
「なんでしょう?」
 ドアノブに手をかけたタイラブは、怪訝そうな顔で振り返った。
「お嬢様は、コーヒーが苦手なご様子です。できればミルクティーを一杯、いただきたいのですが」
 あからさまに拍子抜けした顔が、あきれた笑いに取ってかわられるのに、そう時間はかからなかった。


「で、まさか受けるわけじゃないでしょうね」
 甘いミルクティーで唇を湿らせて、リリンはアルスの瞳を見つめた。
「だめか?」
「森海に行く意味なんて、なんにもないじゃない。半仮面卿はここにいるんだし」
「森海じゃなくて、境界林の先端らしいぞ」
「同じことでしょ、それ」
 境界林は森海へと成長する数歩手前の木々の群。その最先端ともなると、森海とかわりはない。凶悪な鎧獣の跋扈する場所である。
「どっちにしたって危険なんだから。貴族の馬鹿息子の話じゃ、砦なんか作れるわけない、ていのいい捨て石だってさ」
「だろうな」
「それにアルス、ほんとは弱っちいじゃないの。三流の盗賊に苦戦するような腕で、鎧獣の相手になるわけないでしょ」
「それを言われると返す言葉もないんだが」
 コーヒーが苦いのかリリンの言葉が痛かったのか、渋い顔が天上を見た。
「さっきの半仮面卿とタイラブの会話、気にならないか?」
「どの話?」
「実験段階だの傭兵組織発展だの、言われてたやつだ」
「ぜんぜん」
 にべもない返答であった。
「アルス、オフレイムとかいう人が気になってるんでしょ?」
「ん、まあな。死なせるには惜しい、少ししか話せなかったが、そんな人だ。忠義を知る、古いタイプの武人だな」
「ふーん」
「あれだぞ、リリンが半仮面卿の屋敷で立ち合った、じいさんだぞ」
「あのおじいちゃんなの! また無理しちゃって。さっさと隠居でもすればいいのに」
「もしかしたらあの失態のせいで、こんなやばい仕事に回されたのかもしれんな」
 リリンの良心が、ずきりと痛んだ。
「ああ、かわいそうに。孫と楽しく暮らしていたはずの老人がなんの因果か、容赦のない押しこみ強盗に余生を狂わされるとは」
「伯爵の影を殺したの、アルスじゃないのよ」
「一騎討ちで、あっさり負けたほうがショックだと思うぞ。なんにせよ、棺桶の蓋閉めるまで人生はわからんもんだよな」
 悲しそうに首を左右させるなど、オーバーな身振りを交え、アルスはリリンを刺激する台詞を並べた。そして、数拍の間を置いて。
「行ってもいいかな?」
「わかったわよ、もうっ! 行きましょう」
「行きましょうって、まさか」
「なにがまさかよ。あたしも行くに決まってるでしょ。それともその剣、置いてく?」
 剣どうこうは方便でしかない。アルスが行くなら自分も行く。なぜだかそれがもう、当たり前に思えた。
「……いざとなったら、お嬢様の仮面を脱いで、自分の身だけは守ってくれよ」
「あてにしてないから、だいじょぶよ。アルスこそ、まずくなったらすぐ逃げるのよ」
「はいはい。一度なくした信用は回復するのがこんなにも難しいって、思い知ってますよ」
「それじゃ、寝ましょっか」
「じゃあ、明日な」
「どこ行くの?」
「どこって、俺の部屋をもらいに」
 リリンの指が、ちょんちょんと長椅子を差した。
「ここで寝ればいいでしょ。夏だから掛け布団は一枚でいいし」
「せっかくなんだから、手足を伸ばして眠らせてくれよ」
「護衛が離れてどうするのよ。もしかしたら夜中に誰かが、あたしを襲うかも。ああ、リリンちゃんの貞操はいかに」
「いかにじゃねえ、いかにじゃ。……俺だって男だぞ」
「胸の大きな許嫁がいるんでしょ。変なことしたら、プルル・ファルにいいつけるわよ」
「そ、それだけは勘弁してくれ。それは洒落にならん、まじで」
 ここまでアルスが狼狽するのをリリンは始めて見た。
「なによ、もう尻に敷かれてるわけ。よっぽど怖い人なの?」
「怖いというか、なんというべきか。頭のいい人なんだが……やめよう、頭痛がしてきた」
「しっかりしなさいよね、まったく情けない。じゃ、お休み」
 と言うとリリンは、はがした布団を手にとって自分が長椅子に寝転んだ。
「なにやってんだ」
「疲れてるんでしょ。ベッド、柔らかくていい気持ちよ。あたしはちっちゃいから、ほら、ソファーにぴったり……きゃっ、なによ」
 寝転んだままのリリンを、首と膝裏に手を回して抱き上げたアルス。
「いいか、万一命知らずで物好きな誰かがこの部屋を襲ったとき、お嬢様がソファーで寝てたらどう思う。それこそ怪しいだろうが」
「うっ、それは、そうかもしれない」
「気持ちだけもらっとくよ。はい、お休みなさいませ、手のかかるお嬢様」
「ねえ、一緒に……寝る? 言いつけたりしないよ」
 顔下半分を布団で隠し、恥ずかしそうにリリンはつぶやいた。冗談とも本気とも取れる口調で。
「ばーか、十年早いよ。もっと胸がでかくなったら誘ってくれ」
「ふーんだっ! 十年もしたら、アルスなんか目じゃないぐらい綺麗になるんだから」
「そいつは楽しみだ。死ぬまで長生きしてくれよな。お休み」


「朝早くから失礼致します。おや、眠そうな顔をしておいでですな。少し早いですが出発まで間がないもので、お返事を伺おうと」
 遠慮を知らずに打ち叩かれた扉。長い髪を掻きむしりながら応対に出たアルスに、タイラブが早口の挨拶を告げた。
「コーヒーのせいで目が冴えて、なかなか寝つけなかったもので」
「それはそれは」
 護衛とはいえ、若い男女が同室で一夜を共にしたと知り、タイラブは意味ありげな瞳で部屋を覗きこんだ。
「で、護衛の件なのですが」
「お受け致しましょう」
「本当ですか? いや、それは助かります」
「ただし、お嬢様が同行されることを許可していただければですが」
「なんと!? いやしかし、ご令嬢が足を踏み入れるような場所では」
「それではしかたありません。この話はなかったことに」
「参りましたな。わたしでは判断しかねますので、オフレイムをよこします。時間がないですから、手短に結論を出して下さい」
 そう言ってタイラブは本当に忙しそうに駆け去った。
「おじいちゃん、いいって言うかしら?」
「多分な。よく眠れたか?」
「あんまり。アルスも?」
「ああ、寝つきが悪くてな」
 かみ殺せないあくびが交互に溢れた。
「服はどうする。いくらなんでも、そのドレスじゃ動きにくいだろう」
「そうね。いつもの旅装束があるにはあるけど、そんなの着て行ったら、用意がよすぎるって思われそう。第一、お嬢様の着るような服じゃないし」
「クローゼットに、なにか入ってないか?」
「そんな都合よく……あるものね」
 小さなクローゼットにはところ狭しと、数える気にもなれないほどの服が架けてあった。
「うわっ、目移りしちゃう」
「サイズは合うか?」
「うん、だいじょぶそう。ほら、外出てて」
 廊下へと追い出されたアルスの視界に、堂々と胸を張って歩み来る、オフレイムの姿が入った。
「アルスノバ殿。このたびは、わしのわがままを聞き入れて下さるそうで、感謝の言葉もありませんわい」
「いいえ。こちらこそお声をかけていただいて恐縮です」
「口で言う以上に危険な任ですぞ」
「承知しております」
「では、あの跳ねっ返りのお嬢様を守りきれる自信もおありか?」
「ええ」
「これはまた頼もしいこと。相手が王狼であっても?」
「なんであろうとどこであろうと、わたしはあの方と一緒にいれば死ぬ気がしません」
 オフレイムは白黒混ざった顎髭をさすりながら、ふうむと低く唸った。
「よほど深い絆がおありのようだ。長く仕えておられるのか?」
「いえ、それはその、そうでもなく」
「ねえねえ、これどうかしら? っと、おはようございます」
 元気いっぱいに飛び出してきたリリンはオフレイムの存在に驚き、ばつの悪そうな顔をしてうつむいた。
「これは初めまして。お力を貸していただけるそうで、ありがたく思っております。はて、どこぞでお会いしたことがありましたかな?」
「い、いいえ、存じあげませんわ」
「はははっ、いやこれは失礼。最近、とみにもうろくしましてな。食事を取ったかもわからん始末で……その服はどうされた?」
 豪快に笑うオフレイムが、突然そのまなじりをつり上げた。
「ここのクローゼットに入っていたものを、お借りしたのです。森海へ赴くのにドレスではさすがに。いけなかったのかしら?」
「いや……なに、よくお似合いで。用意が整いましたら、中庭においでくだされ。早々に出発致しますゆえ」
 深々とした一礼を残しオフレイムは大股に去って行った。
「ふう、びっくりしたー」
「正体、ばれたってことはないだろうな?」
「それはだいじょうぶよ。これからも、お嬢様してればね」
「そこがなにより不安なんだが」
「どういう意味よ。ねえ、これどうかしら?」
 澄み切った空の蒼とそこに浮かぶ真っ白な雲の色で描かれた、チェック柄のワンピースにリリンは袖を通していた。後ろに結び目ができる黒い帯が、揚羽蝶のように腰を飾ってもいる。
「スカートが短すぎんか?」
「でも、ぎりぎり膝下だしさ。動きやすくて涼しいし。かわいいでしょ、なんてったって」
「リリンが気に入ったんなら文句はないが。ただ」
「ん、ただなに?」
「オフレイム殿の態度が少し気にならんか?」
「ああ、急に怖い顔したわね。でも、服の一着や二着、どうってことないでしょ」
「それもそうだが……まあいい、行くか」
「その前にシャワー浴びて、ご飯食べる。昨日も、あんまり食べれなかったし。たくさん食べて体力つけないと」
「んな悠長な。森海にシャワーなんてないぞ」
「だからよ。いまのうちに身体洗っとかないと、次いつ、お風呂入れるかわからないでしょ。ってことで、いいわけよろしくお願いしますわよ、アルスノバ」