第二章


 この世界の森林は大きく三種にわけられる。一つは人の手によって植樹された、安全な憩いの場。余暇には家族連れや恋人が、散策を楽しむ姿が目につく。
 二つ目は森海と呼ばれる広く深くどこまでも暗い、人間を拒絶し続ける森。そこは〈鎧獣〉が支配する世界である。
 鎧獣とは全身を覆う表皮がくまなく硬質化した、人間からすれば異形の怪物に他ならない。鋭い牙や爪を持つ、猛獣型の固体は数多く確認されているが、それ以外は種類も生態も、ほぼ謎に包まれている。
 間違いないのはその圧倒的なまでに強大な殺傷能力であり、凶暴で危険な強化犬も、こと鎧獣と比較すればかわいらしいペットと呼ばれてしまうほどである。
 本来、人の住処と鎧獣の暮らす森海は遠く隔たっており、鎧獣との異種間遭遇は年に数度、それも被害者は古代の遺跡を探し歩くトレジャーハンターと相場が決まっていた。
 しかし、技術革新による死亡率低下。それに伴った人口増加に対処するため人間は、森海へと成長する前段階の自然林、境界林と呼ばれる若い森を好き勝手に伐り開いていった。
 この第三の森は人間と鎧獣、どちらにも属さない中立世界。いわば相互不可侵地であり、鎧獣からすれば重大な背信行為を受けたことになる。さらには、一攫千金をもくろむ山師が輝幻石の鉱床を捜し当てるためにと、大量の爆発物を森海に仕掛けたことが鎧獣の怒りに火をつけた。
 えぐり取られた森海から、吹き出す血潮のごとく鎧獣は溢れ、侵略者にその命をもって償いを求めた。そんな悲惨な出来事を幾度となく繰り返していま、鎧獣の襲撃は珍しくもなくなり、鎧獣=人に仇なすものという認識が定着していった。
 口さがない傭兵たちは鎧獣を〈害獣〉と罵り、いつかこの世から一掃してやると、出来もしないことを息巻くのであった。
 

 屋敷一件を壊滅状態に追いやった張本人は大木の枝に腰かけて、疲れ切った心と身体とを休めていた。そんな場所で休息を取らなければどうしようもないほど派手に暴れ回ったというのに、なに一つ収穫はなし。とんだくたびれ儲けとは、まさにこのこと。
 加えて、あろうことか暗殺者の濡れ衣まで着せられたのである。自称、怪盗のリリンには、なによりこれがショックであった。当分の間は立ち直れないであろう。
「まっ、こんな日もあるわよね。次はがんばるぞー!」
 ……そうでもなかった。
 この少女が落ちこみうなだれる。たしかにこれほど似合わないこともない。顔の造りがそもそも、本人は無表情のつもりでも微笑を浮かべているように見える。
 太陽がひととき雲に覆い隠されることはあっても、太陽自体が輝きをやめることはない。もしかすると、それと似ているのかもしれなかった。
「けど、一体どうやったら、あの密室で人が殺せるのかしら」
 死体はまだ、充分に温かかった。外気温の高さが影響していても、死後数分も経ってはいないはず。
 半仮面の下が三年前の鎧獣襲撃により、どれほど醜く焼けただれたのか、それを知る者はない。しかし、明君と謳われたレッドベリル伯爵は顔面だけでなく、むしろその心に消えぬ傷を受けたということは、疑いようのない事実であった。
 人格を一変させたレッドベリル伯爵の、非情とも言える所業を恨む憎む声は、それこそ枚挙にいとまがない。
 焼きつくされた半仮面卿の心に、輝幻石の魔性が入りこんで狂わせたのだ。
 そんな批判の通り、半仮面卿へと姿を変えた後の彼は、輝幻石に対し尋常ならざる執着を見せた。
 輝幻石の鉱床があると判明するや土地は、外界から完全に隔離措置が施された。一方的かつ強制的に。立ち退きを拒み、居ながらに家を焼き払われた老人。知らずに足を踏み入れ、斬り殺された旅の一座。女子供であろうと容赦がなかった。
「いっぱい人を泣かせて、自分のために泣いてくれる涙をなくした人、か。でも、命まで奪うのは、やっぱり違う」
 リリンは善良な人間から、輝幻石を奪うことはしないと決めている。思い切り暴れ回っても良心が痛まない相手を最初から、ターゲットとして選んでいた。
 レッドベリル伯はまさに、そんなリリンには絶好の相手であった。そうではあったが、鎧獣の襲撃という不幸に遭遇した彼を、わずかではあったが哀れんでもいた。リリンも鎧獣をやはり、憎んでいたから。
「やっぱりあの声と関係あるのかしら」
 リリンに逃げるよう忠告した、若い男の声。囁きでありながら張りのある、けれどもどこかしら悲しげな声だった。
 耳内の奥に残る響きを何度も反芻しながら、乱れた髪を撫でつけつつリリンは、下をぼんやりと眺めた。随分と優しくなった陽射しが木々の影を伸ばせるだけ伸ばそうとしている。
「んにゃっ!」
 不意に、すっとんきょうな声を上げたリリンは、なんとも器用なことに太い幹を駆けるように降りた。
「こんなところに落とし物がいっぱい!」
 木の根元には立派な剣が、それも三本立てかけてあった。木々に混ざるその影を目ざとくも見つけたのだ。
「やっぱり、日頃の行いがいいからだわ。神様は見てるものよね」
 リリンが勝手に決めつけたところの〈神様からの贈り物〉は他に、旅人が日用品を入れるのに重宝する担ぎ袋が一つ。軽鎧をはじめとした、男物の衣服一式。さらにはブーツまでが、きちんと揃えて置いてあった。
 近くに川でもあれば誰かが水浴びのために脱ぎ置いたとも考えられるが、ここは街にほど近い人工林。あっても水たまり程度の湧き水がせいぜいである。
 よく考えずとも、実に気味の悪い話なのだが、リリンはまったく意に介することなく、品定めを始めた。やはり、目を引いて離さない剣に手が伸びる。
「綺麗……」
 幾粒もの宝石が――輝幻石かもしれないが――色とりどりに配置され、まるで砂絵のよう。この鞘だけでも相当の値打ちがあるはず。
 しばし見とれた後、刃を確認しようと鞘に手をかけたリリンであったが、少女ということを忘れてあげたくなるぐらいの勢いで唾を吹き出してしまった。
「う、嘘でしょ!? これ、輝幻石……」
 なだらかに湾曲するその刃は紫水晶によく似た、鉱石から削り出されていたのだ。
 鋼の刃に一つ二つ輝幻石を埋めこんで魔法剣にするのはよくあることだが、そんなちゃちなものとはわけが違う。
 どれだけ巨大な輝幻石でも、せいぜい女性の拳が限度。削ったことを考えに入れると、元の大きさはどれほどであったことか。
 この世界で最高の硬度を持つ物質は、宝石と輝幻石に属する。それを剣に加工したのだとしたら、切れ味など言うまでもないこと。
 指で弾いて音と感触を確かめる素振りのリリンであったが鑑定は専門外。輝幻石かどうか判別できるわけではない。それでもあまりの興奮に、じっとしてはいられなかったのだ。
 ただ、漠然ながら受ける感じとして、輝幻石特有の温かみが漂っているようには思えた。
「もしかして他の剣も」
 思わぬ拾い物に高鳴る鼓動は勢いを増し、歓喜に震える指先が残りの剣へと伸ばされた、まさにそのとき、
「んっ……?」
 生暖かく柔らかい、それでいて固い感触が、伸び切る直前のリリンの腕を邪魔したのだ。障害物など影も見えない、透き通った大気だというのに。しかも、その感触はリリンが首をかしげた瞬間に、軽くながら手首をつかんだではないか。
 絶叫を上げ、一目散に逃げ出す。
 大筋ではリリンも一般例から漏れはしなかった。ただ、叫び声と逃げ出すとの間に、荷物のすべてを抱き奪う、という一動作が加わっただけで。
「な、なんなのよっ! 化け物、怪物、幽霊、死神、吸血鬼! ええとあとは……とにかく姿を見せなさい!」
 木の裏に退避したリリンは手に触る石や木の実を手当たり次第に投げつけた。空気中になにかが存在する証拠に、いくつかの石が跳ね返り落ちる。
「ったく、とんでもない女だ」
 やりきれないといった口ぶりが囁くと、若い男がまるで空気に産み落とされたかのように忽然と現れた。一糸まとわぬ、全裸で。
 どんな化け物が現れても、リリンは驚かないつもりでいた。
 何度も驚いてやるなんて、相手の思うままで癪じゃない。
 そんな強気のリリンではあったが、これにはさすがに面食らった。夕陽も手伝った、真っ赤な頬が背けられる。
「へ、変態の、化け物、だなんて……最悪の組み合わせ」
 罵る言葉も、うまく舌が回ってくれない。
「なんとでも言え。お前が俺の荷物を返してさえくれれば、すぐに消える」
「なにふざけたこと言うの! これはあたしが見つけたんだから、あたしの物に決まってるでしょ。露出狂は引っこんでなさい」
 せっかくの大収穫。相手がなにものであろうと、やすやすと手放すわけにはいかない。
「口の減らない――」
「ちょっと待って! せめて、その……隠して欲しいんだけど」
 横目がちらり、男の下腹部に。
「ん? ああ、俺は別に気にせん」
「あたしが気にするの! レディーの前でいつまでも、そんなものぶら下げて……」
 つっぱりきった欲の皮も、さすがに乙女の羞恥心までは覆えないようだった。
「見たくないなら服をよこせ。それで解決だ」
「むっ、仕方ないわね。半分返す」
「全部返せよ……」
 リリンは足元の荷物から衣類を選び、全裸の男へと放った。もちろん手放す前に、ポケットの中身を確認することは忘れていない。
「で、どうしたら返してくれるんだ?」
 夏服に袖を通した男は、ふくらはぎまではあろうかという、真っ黒な頭髪を後ろで縛りまとめながら、平坦な声のまま問うた。
「その前に、これがあなたのだっていう証拠はあるの?」
「俺がここに置いた」
「そんなのは無意味ね。いまはあたしの手のなか。つまりはあたしの物。置き去りにするほうが悪いのよ」
「そんなに欲しいなら、くれてやってもいい。だが、剣だけは返せ。それでどうだ?」
「やだ。だってこの剣、輝幻石でしょ。こんな珍しくて高価な物を、はいそうですか、って返せると思う?」
「力ずくで、取り返してもいいんだぞ」
 男は低く、脅しの言葉を吐いた。二人の距離はほんの二足しか離れていない。男が激昂すれば危うい距離かもしれない。
「あなたは、そんなことしないから」
 危険な状況を熟知していながら、リリンは自信に満ちた頬笑みを浮かべた。
「変に信用されても困る」
 困惑の表情などかけらもなく、あくまで冷たく男は答える。
「そりゃあね、変態の露出狂を信用するほど、あたしも物好きじゃないわよ。さっき、助けてくれてなかったらね」
 逃げるようにと忠告してくれた、あの声。リリンは気づいていた。
「姿のない声。なにもない空中から突然現れた身体。あなた、もしかして陽炎……?」
 リリンの目を途絶えることなく見据えていた男が、ほんのわずか視線を落とした。
「やっぱりそうなのね! 空気と同化することだってできるっていう、裏世界の暗殺者集団。透明人間だなんて、おとぎ話のなかだけだと思ってたけど、ほんとにいるなんて」
「……だったらどうした。気まぐれが何度もあると、そっちが思うのは勝手だが」
 男が突如、その身をかがめた。夕陽のきらめきがリリンの両目を刺す。
「相手を見て喧嘩は売ることだ」
 わずかな隙を利した太い腕が背後から、目をかばい、のけ反ったリリンの首に巻きついていた。
「おとなしく返せ。手荒なまねはしたくない」
 冷たく抑揚のない脅しに、リリンは大きな笑いで応えた。
「二流もいいとこね。邪魔するものは女子供も真っ二つ! 暗殺者なら、それぐらい非情でないと。ま、あたしってばこんなにかわいいから、遠慮するのもわかるけど。……苦しい、離して」
 耳元に吹きかかった大きな溜息を合図に、リリンの自由は取り戻された。
「やっぱり優しい人ね、あなたって」
「お前、わざと目がくらんだふりしたろ?」
「さあ」
 悪戯っぽく輝く瞳でリリンは、ゆっくりと男の方を振り向いた。
「でも、いい動きしてたわよ。あたしには、ちょっと届かないけど」
「そいつはどうも」
 男は初めて表情らしい表情――やりこめられた自分に対する苦笑を浮かべると、交渉の長期戦を予期したのか、長い髪を身体の前に回して腰を下ろした。
 締められていた喉をさすりながら、リリンもつられるように座る。
「すまん。痛かったか?」
「ううん、そうでもない。手加減してくれてたから。あたしはリリン、名前は?」
「アルスノバ」
「アル、アルス……アルスでいい?」
「好きなように」
 刺々しく張り詰めた、いかにも暗殺者といった雰囲気はどこへやら、どこにでもいる青年の顔でアルスは答えた。蒼い瞳は穏やかにリリンを見つめる。心の底でどのような計算がなされているかはわからないが。
「で、どうしたら返してくれる? その剣だけは、くれてやるわけにはいかないんだ」
「そんなに大切なら、そうね、買い取りにして上げよっか?」
「いくらだ?」
「大負けに負けて、金貨五千万枚で持ってけ泥棒! って、泥棒はあたしか」
 おそらく、世界中の金貨を集めても三千万枚足らず。地中に眠る、未だ発見されていない金鉱を計算に加えても、五千万枚になど遠く及びはしない。
「あのなあ、吹っかけるにもほどってもんがあるぞ、ったく。わかったよ、俺はなにをすればいいんだ?」
「ふふ、察しがいいのね」
「俺を陽炎と知ってから、顔つきが変わったからな。いい悪戯を思いついた、そんな顔してるぜ」
「そ、そうかしら」
 ぺちぺちと頬を挟み叩くとリリンは、すこぶる真剣な面持ちを見せた。
「王族や貴族の争いの裏で必ず動く、凄腕の暗殺者集団。それが陽炎よね?」
「大筋ではそんなもんだ」
「身分の高い人の依頼しか受けないの?」
「やるかやらないかは上が決めることさ。金さえ払えば、受けないことはないと思う」
「仕事料って高い?」
「俺は組織から決まった報酬を貰う身でね。実際にいくらかかるかは知らん。俺たちを探し出すだけでも相当の金は必要だろうがな」
「それもそっか。あたしだって、いまのいままで信じてなかったし、どこに頼めばいいのかもわかんないんだしね。じゃあ、アルスはいくら貰えるの?」
「一件依頼を成功させれば、十年ちょい遊んで暮らせるぐらいかな」
「めちゃくちゃ高いじゃない!」
「金貨にしたら、三十枚にもならんぞ」
 ちくりと嫌味を返されたリリンは、知らないもん、という感じでぷいと横を向いた。
「でも、姿を消せるんだから簡単な仕事よね。ちょちょいのちょい、って感じでしょ」
「そんな楽なもんじゃない。姿を消すってのは……お前に言ってもわからんことだが、あれで苦労も多いんだぞ」
「露出狂と間違われたりするしね」
 明らかに気分を害した蒼い視線をリリンは、やはり横を向き、今度は口笛を吹いてやり過ごそうとした。
「べたべたなごまかしかたするんだな、お前って……。とにかく、金が目当てでやるような仕事じゃない」
「じゃ、どうしてアルスは続けてるの?」
「運命さ」
「逃げの言葉よ、それ」
「陽炎に生まれついたってことは動かしようがない。人を殺すこと以外なにも知らない、教えてもらってもない」
「でも! ……自分がかわりたいと思ったら、いまからだってきっと」
 鼻から息を吹き出して、アルスは笑いをこらえようともしなかった。どこかしら作った表情は掻き消えた。
「む、世間知らずの子供のたわ言だって、ばかにしてるでしょ」
「いや、まっすぐで羨ましいって思ったたけだ。そうだな、できるなら人並みの幸せってやつを探してみたい気もする。でも俺は、このままでいないとだめだ」
「どうしてよ?」
「でないと、お前の依頼を受けられないだろうが」
「それはまあ、そういうことになるのかな」
「当たり前だ。仕事でなくて誰が人を殺せる」
「なんか、ごまかされた気がするんだけど」
 釈然としないリリンではあったが、それ以上の追求はしなかった。人それぞれ事情はある。土足で踏みこんではいけない場所が。もちろん、リリンの心のなかにも。
「しかし、あれだけ節操のない魔法を使えるお前に、殺せない相手がいるのか? 俺も危うく、とばっちりを食うところだったぞ」
「あ、断わっときますけど、あたしは人を殺したことなんて一度だってないんだからね」
「あの魔法で人が死んでないだと!?」
 嘘だろうと言わんばかりに身を乗りだし、アルスは聞き返した。
「あたしは怪盗なんです。そのへんはちゃんと計算……なによその目は」
「怪盗って、そりゃあんまりにあんまりな」
「うるさいわねー。まあちょこっとだけ、乱暴だったかもしれないけど」
「どこをどう取り出しても、最大最悪の暴力だぞ、ありゃ」
「とにかく魔法は完璧に計算……っていうか、ここにこれだけの力で撃ったら、誰も死なないって場所がなんとなくだけどわかるの」
「ほーっ。それはそれは」
 気のない返事のアルスに対し、たたみかける勢いでリリンは弁解を続けた。
「嘘だと思うんなら、いまからあの屋敷に行って聞いてみればいいわ! 人殺しなんて最低なこと、あたしは殺されたってしない! ……っと、別にアルスのことをどうこう言うわけじゃ」
「気にするな。それが普通の感覚だ。で、誰を殺せばいい?」
「やってくれるの?」
「剣が戻るなら安いもんだ。さあ、言ってくれ。できるだけ詳しくな」
 思ったことは、ずばずばと言い放つのがリリンという少女の性分。それが珍しくも口ごもった。
「どうした。遠慮してるわけじゃないよな」
「ほんとにやってくれる?」
「ああ、俺に殺せない人間はいない」
「そこがちょっとね……」
「どういうことだ? 言うだけ言ってみろ」
「……王狼」
「聞こえないぞ」
「だから王狼!」
「無理だっ!」
 アルスは言下に答えた。
 王狼。それは鎧獣を統べる王者の呼び名。その呼称を口にするとき人は、最大限の恐れと隠せない畏敬をこめる。鎧獣が人に害をなすとき、常にその最後尾には王狼がいた。忌むべき存在ではあるが、それを忘れさせてしまうほどの風格が王狼にはあるのだ。
 外見としては、その名の通り狼に近い。磨き抜かれた金属のように硬い輝きを放つ表皮には一点の曇りもなく、美しくも山さえ覆い隠す巨大な体躯は、一夜で四海をまたぐとまで言われる。
 一般の鎧獣でさえ、人間十人には匹敵する力を持つと言われるが、王狼はそんな生やさしいものではない。全人類、いや、鎧獣まで含めて全生命が一丸となって当たったとしても、おそらくは微動だにさえしまい。
 地上最強。この言葉は王狼のためだけにあるのだ。
「俺も一度だけ見た記憶はあるが、あれはだめだ。消えて近づいてどうこう、そんなレベルじゃない」
「やっぱりね……」
「王狼に恨みが――」
「あるわっ!!」
 アルスの問いを打ち消す、腹からの声でリリンは叫んだ。
「王狼だけは許せない。どうしても、死んだって許さない!」
 小刻みに震える全身。握った拳のなかに、爪が突き刺さる。
「すまんな、役にたてんで」
「ううん、いいの。どうせ無理だってわかってたから。それに、王狼を倒す方法がないわけじゃないし」
「あるのか。どうやって?」
「もちろん輝幻石よ。だから、あたしは泥棒までして集めてるんだから」
「輝幻石はだが、鎧獣には効かないんだろ。討伐に行った魔道士部隊は、あっさり壊滅させられたって聞いたぞ」
「そのへんのことは、おいおい話すわ。時間はたっぷりとあることだしね。ということでアルス。あなたはあたしの助手一号として働いてもらいます」
「まさかお前、俺に姿を消して盗みをさせようなんてこと」
「大正解! ああ、これで怪盗リリンの名前を正しく世に知らしめることができるわ」
「とっくに間違いだらけで、どうしようもあるか……」
「なんか言った?」
 睨みつけられたアルスは先にリリンがして見せたように、横を向いて口笛を吹いた。これにはリリンも苦笑するしかなかった。
「で、何度その助手とやらを務めれば、剣と俺は解放してもらえるんだ?」
「そうね。一年はみっちりと働いてもらおうかしら。十年は遊んで暮らせるってことだし」
 様々な反論が浮かんだのだろう。口だけがぱくぱくと動いた。けれど結局、どれも説得には足りないと判断したのか、アルスはただうなだれた。かわいそうになるほど、深く。
「逃げようだなんて思わないでよ。もし逃げたりしたら言いふらすんだから。陽炎のこと」
「そんな馬鹿なことしたら、お前が真っ先に殺されるぞ」
「でしょうね。だから、もしそうやってあたしが殺されたら、間接的にでも殺したのはアルス、あなたよ。そんなことになったら寝覚め悪いでしょ? だから、逃げたりしないで。お・ね・が・い」
 甘えた声にウインクが重なる。
「いいかげんにしろ」
 アルスの声質が変わった、いや、戻ったと言うべきか。冷たく無機質な暗殺者の声に。
「なんだ、その脅しだか、からかいだかわからん言いぐさは。その気になれば俺はいつだって」
 そこで言葉は切れた。言葉の続きはリリンにも容易に想像できる。逃げる、あるいは殺す。そのどちらかだと。
 重い空気がしばし流れた。リリンの次の言葉いかんでは、アルスは考えを行動に移すかもしれない。
「じゃあなに。うっすらと涙でも浮かべて、上目遣いに頼めば逃げない?」
 とリリンは、その言葉通りの表情をして見せた。どこまでも自分のペースを崩さない強気な娘。良くも悪くもそれがリリンであった。
「逃げないで、お願い……」
「そんな顔したって、いまさら」
「一生のお願い。あなたの力を貸して」
 リリンの頬を涙が伝う。半分嘘の涙が。
「もういい、わかった! 逃げない、逃げません」
「ほんとに……?」
「ああほんとだ。第一俺は、逃げたいなんて一言も言ってないだろうが。だからその、か弱いふりはやめてくれ。背中が痒くなる」
 本当に身体を掻きむしりながら、この上ない早口でアルスは降伏を申し出た。
「やたーっ! 約束だからね、絶対だからね」
「ああ、約束だ。しかし、ころころ変わるよな、お前って。飽きなくていいが」
 再び優しい表情が、涙をそのままに笑うリリンに向けられた。
「だけどな、これからは冗談でも、仲間に迷惑がかかるようなことを言うのだけはやめてくれよ」
 アルスが怒りを露にしたのは自分のためではなかった。
「うん、あたしも約束する。王狼さえいなくなれば、すぐに解放もしてあげるわ」
「すぐったって、んな簡単には集められないだろうが」
「あたしひとりで、輝幻石を集めているわけじゃないのよ。リグラフト商国、知らないわけないよね」
「商国絡みか。それだけで、きな臭いな。利用されてるってことはないのか?」
「さすがは陽炎、慎重ね。でも、それだって構わない。王狼さえ殺してくれれば。とりあえず、あたしのねぐらに案内するわ。急がないと暗くなるしね」


 人工林に敷かれた遊歩道を二人は西へ歩いていた。ところどころ石が浮くなど、古びた石畳の間からは雑草が伸び放題。ここまで奥まった場所には、滅多に人が足を踏み入れることはないので修理はまだ先だろう。
 リリンから、借り受けという形で荷物を返してもらったアルスは一見したところ、フリーの傭兵そのままのいで立ちである。
 機能性のみを追求した、飾り気などまるでない上下の衣服に、黒光りする軽鎧と肘当て。足を覆うのは丈夫な、なめし皮のブーツ。
 ではあるのだが、このまま街中に姿を現せば間違いなく人目を引くことだろう。
 原因は、三本もの剣と長すぎる黒髪。
 少ないとはいえ、二刀を操る者もいることはいるが、邪道の技と軽視される向きが現実としてある。それが三刀ともなれば、言わずもがなの反応は間違いない。しかも、アルスの剣はどれも長剣。それも、半端でなく長い。リリンが目を奪われた、あの輝幻石製の剣など、リリンの身長よりも長いのだ。
 それでいて細身でないとくれば、重量も相当なはず。振り回すのでさえ困難なことは、素人でも容易に想像がつく。
 一方、後ろで束ねた髪はといえば、これまた長い。腿までの長髪は労働とは無縁の貴婦人でもなければ邪魔になってしょうがない、選択しようのない髪形である。
 傭兵や、もちろん暗殺者にだって歓迎されるはずのない不効率を、どうしてアルスがしているのか。この二つもの特徴をリリンが黙って見逃すはずがなかった。
「ねえねえ、どうして三本も剣、持ってるの? 長い髪って、うっとうしくない?」
「二つもいっぺんに訊くなよ」
「どっちも同じぐらい気になったんだもん」
「なるほど」
 リリンの適当なでまかせを、アルスは妙に納得した顔でうなずいた。
「じゃあ、剣から教えて」
「三本持ってたらだめか?」
「そうじゃないけどさ。二刀流の人だってばかにされるんでしょ。第一、三本もどうやって使うの?」
「剣は命、命が二つもあるものか。傭兵の間に、そういう風潮があるのはたしかだな」
「うん、聞いたことある。あたしからしたら、つまんないことに意地張ってるって感じだけど。折れたらどうせ買い替えるくせにさ」
「俺は傭兵じゃないんで、三本持とうが四本だろうが関係ないさ。予備に持ってる、それだけだ」
「なんか騙されてる気がするんだけど、そういうことにしといてあげるわ。髪の毛、邪魔じゃない?」
 肩までの髪に手をやってリリンは言葉を続けた。
「この長さでも、あたしはもう充分。ばっさり切りたいんだけど、ショートは似合わないのよね」
「せっかく生えてきたんだから、切るのはかわいそうだろ」
「宗教者みたいなこと言うのね。その割には随分と深爪だけど。髪はかわいそうで、爪はそうじゃないの?」
 細かい観察眼においてリリンの右に出るものはいない。
「そう深く追求しないでくれよ」
「だってアルスは、あたしの助手一号なのよ。助手のことはなんでも知っておかないと。一流の暗殺者は髪を伸ばすっていう取り決めでもあるの?」
 隠されると知りたくなるのが人情というもの。あくまで真実を見いだそうと、リリンの鼻息も荒くなる。
「俺は二流じゃなかったっけか」
「あれは言葉のあや。優しいって言いたかっただけよ。だって相手はあの半仮面卿よ。絶対失敗のないように陽炎のなかでも、最高の使い手を差し向けるはず。違わないわよね」
 肩をすくめてアルスは小さくうなずいた。
「言いたくないことだった?」
「いや、そうじゃない。そのうちにわかることだろうから、しばらくはお楽しみってのも悪くないだろ」
「ミステリアスなほうが面白いってわけね。じゃ、そうしてあげるわ」
「今度は俺が質問する番だ。お前――」
「ちょっとお待ちなさい、助手一号。さっきからお前お前って、失礼じゃなくって」
 鼻にかかった甲高い声が、芝居じみた台詞を並べた。
「なんて呼べばいい?」
「女王様とお呼び」
「…………」
 リリンが身体を二つに折って大笑いするほど、アルスは情けなさそうな表情を浮かべた。
その笑い声に、小鳥のさえずりも驚き止まる。
「嘘よ、嘘に決まってるでしょ。リリン、呼び捨てでいいわ。あたし、自分の名前大好きなの。母さんも好きだって言ってくれた」
「じゃあ……リ、リリン」
「ん、なに?」
「その、だから」
 首を傾けての、微笑を湛え見上げる視線に――平均よりアルスは少し高い程度だが、なにせリリンの背が低いので――思わずアルスは口ごもってしまった。
 どうやら彼は女性の扱いには慣れていないらしい。軽口を叩かれれば対応もできるが、何気ない一面、こんな素直な笑顔には対処が遅れる。
 その動揺にまったく気づかないあたり、リリンにも同じことが言えそうであった。もっとも、全裸で恥ずかしげもなく現れたアルスが、自分の笑みで照れるなどとは、考えていなかったせいかもしれないが。
「どうかした?」
「い、いや、いつから盗みなんてやってるんだって、そう思ったんだ。それだけだ」
「半年位前かな。もう、十件ほどは盗みに入ったわよ。地道に働いてちゃ、一生かかったってまともな輝幻石なんて買えないしね」
「いつも真っ昼間に、それも顔を隠しもしないで、あんな派手なことをしてるわけじゃないよな。今日は特別だった」
「ううん、ぜんぶいつも通り。ずっと同じやり方だし」
「だとしたら不思議なんだが、なんで手配書が回ってない。俺も仕事がら、その手の情報は欠かさず手に入れるようにしてるんだが、お前……リリンなんて見たこともないぞ」
「でも、聞いたことはある。そうでしょ?」
「あ、ああ。正体不明の凶悪強盗として何度か……そんな怖い顔するなよ、俺が言ったんじゃない」
 たしかにリリンは素顔を隠しもせず盗みに入った。あの姿で暴れるとは、あたしが犯人ですよ、と叫び回っているようなものである。
 似顔の描かれた手配書がすぐさま作成、ばらまかれ、それこそ森海にでも逃げこまなければ賞金稼ぎの格好の標的になってしまう。
 にもかかわらず手配書を、その道のプロフェッショナル、アルスでさえ見てはいないのだ。これは奇妙なことだった。
「あたしだって、ばかじゃないんですからね。それなりの対策はしてあるのよ」
 アルスに立ち止まるように言ってリリンは、ふふん、と不敵な笑みを音にした。
「いいアルス、あたしの顔をよーく見て。しっかり覚えてよ」
「もう覚えてるよ」
「だったら向こうむいて、十数えて」
「なんだよ?」
「いいから。ほら、ひとーつ、ふたーつ」
 わけのわからぬままアルスは、背中でリリンの声を聞いた。前の茂みでは虫たちが、リリンに対抗するよう音量を上げる。
「じゅーう、っと。まだ、こっち向いちゃだめよ。どう、あたしの顔、思い出せる?」
「思い出すもなにも、そんな簡単に忘れるわけが……あれ?」
「顔じゃなくたっていいわよ。服でも特徴でも、思い出せるなら言ってみて」
「目の色は鳶色、いやそれは髪、違う上着だった気もする……だめだ、全然わからん!」
 いらだちに声を荒らげたアルス。当然よ、という顔をしてリリンは胸をそらせた。
「こっち向いていいわ」
 リリンを視界に入れたアルスは、結びついた記憶に安堵の溜息を漏らした。
「まいったな。俺の頭がどうかしたのか?」
「今頃はあの屋敷でもそうやって怒鳴り散らしてるわ。ほら、秘密はこれ」
 リリンは右手の甲をアルスの目の前にかざした。
「中指と薬指の指輪。これ、輝幻石なの」
「どこにでもありそうな、蒼と紺の輝幻石だな。それもたいした大きさじゃない」
「それだけ?」
「ああ、小指の爪にも紫の輝幻石を貼りつけてるのか。あとは指輪の位置が上すぎる」
 リリンは指輪を二つとも第二関節にはめ止めていたのだ。
「正解。ほら、こうやって指を閉じたら、輝幻石が真横に並ぶでしょ。原理はわからないけどこれで、誰もあたしを思い出せない」
「輝幻石の応用ってやつだな。自分で見つけたのか?」
「ううん、母さんが教えてくれたの。母さんも自分の母さんに、あたしから言ったらおばあちゃんに教えてもらったんですって」
「じゃあ、もしリリンがこのままいなくなったら、俺の記憶には空白ができる」
「そういうこと。奥歯にものが挟まったぐらい、いらいらすると思うわよ」
「だな。相当悔しいぞ」
「こんなかわいい子の顔を忘れるなんて、天地がひっくり返るぐらい悔しいわよね。しょうがないなー、もうっ!」
「異論だらけで胃が痛いが、気持ちいいもんじゃないんで、どうにかしてくれ」
「簡単よ。指輪を取り替えるだけ。ほら、もうだいじょうぶ」
 アルスはリリンをじっと見つめた後、先程と同じように背中を向けると十数えた。
「どう? 瞼に焼きついた愛らしい姿が、すぐに思い浮かぶでしょ」
「ああ、ちっちゃい女ってことは間違いなく思い出せた」
「ほっときなさい! まっ、これで手配書の疑問は解けたわよね」
「なるほどな。作れんわけだ」
「予告状で、名前だけは残るってわけ」
「あんな派手にやって名前だけか。俺はいま、自分の存在に疑問を持ったぞ」
「あはははっ。陽炎に比べたら、くだらない小細工よ。あ、そうだ、お礼言うの忘れてた。囲まれたとき助けてくれて、ありがと」
「礼はいい。あのままじゃ、俺の罪まで着せちまうとこだったしな」
「でも、あれはほんとにピンチだったわ。魔法、使えなくなってたし」
「みたいだったな。魔法も使えずにあれから、どうするつもりだったんだ?」
「伯爵を楯にして、輝幻石を要求しようと思ってたんだけど」
「人質まで取るつもりだったのか……」
「でも、アルスが殺してた。扉の前には、警備のおじいちゃんがずっと立ってたんでしょ。どうやって忍びこんだの?」
「リリンが鍵を壊して、扉を開けたときさ」
「え?」
「扉を開けてすぐ、身を隠しただろ。奇襲か罠を疑って」
「うん。でも、あんなちょっとの間に殺したの。それも羽ペン使って」
「プロなんでな、これでも。その場の物を凶器にするのは陽炎には当たり前のことだし」
「ふーん、さすがよね。あたしももう少し、力の配分考えて魔法使うようにしよ」
「たしかにあれじゃ、魔力の枯渇も無理ないよな。手袋の下に輝幻石はめてるのか?」
「うん、まあね」
 リリンは左手にそっと手を添えた。
「よっぽどでかい石なんだろうな」
「ふふ、気になる?」
「あんな強烈な魔法を連発できるんだ、気になって当然さ。もちろん、魔力を集約、増幅するのが輝幻石だから、リリン自身の力も相当なもんなんだろうが」
「驚かないって約束したら見せてあげるけど」
「なにを見たって、驚きゃしないよ」
「覚えとくわ、その言葉。でも、その前に」
 その手袋に包まれた手でリリンが前方の木々をびしっと指差した。
「あいつらの退治をよろしくね」
「なんだ、もう気づいてたのか。まだ、匂いも届かない距離だぞ」
「甘く見ないで。こんな不細工な殺気なんてめったにないわ。出てきなさいよ、隠れてるのはわかってんだから!」
 殺気に綺麗も不細工もなかろうが、これは挑発。周囲からまんべんなく聞こえる虫たちの会話が前方にはなかっただけ。案の定、いかにも盗賊といった男たちが猛り出た。
「五人か。半分はやってくれるよな」
「なーに言ってんのよ。アルスならわけないでしょ。あたし疲れてるんだから任せるわ、助手一号」
「わけなくもないんだが……」
 そう言いはしたものの、アルスは素早く抜剣。三本のうち最も短い、それでも一般の長剣よりは気持ち長い、鋼の剣を青眼に構えた。
 傍観を決めこんだリリンの助力を得るのは至難の業。無駄ともいえる努力に費やす時間を、敵方がくれなかったせいでもあるが。
 雑然と駆け来た盗賊の一団は前方をふさぐよう、真横に並んだ。
「彼女の前だからって格好つけんなよ、兄ちゃん。黙って金目の物、置いてきな」
 中央のリーダー格らしき男が有体の脅しを突きつける。頬に走る傷跡を見せびらかしでもするように、顔を前に出して。
「うるさいわよ傷物。そっちこそ身ぐるみ全部、置いてきなさい。いまなら許したげるわ」
「おいおい、挑発するな。やるのは俺だぞ」
 眉をひそめ、リリンを振り返ったアルス。隙だらけのその態度を見逃してくれるほど、三流の賊に余裕はない。鞘走りが連なる。
 すれ違いざま次々と賊を切り倒すアルス。そんなリリンの予想は大幅に裏切られた。
「ちょっと待て。待ってくれるわけないか!」
 などと叫びつつ、アルスは防戦一方。次々と迫る円月刀や五指剣を辛うじて、本当にぎりぎりのところで躱す、あるいは受け流す。
 余裕を見せている。リリンも最初はそう思った。しかし、刻まれた黒髪が風に舞い、頬からは鮮血が滴り、ついには円月刀の一撃がアルスの二の腕を切り裂いた。
 ことこれに至っては見ているだけにいくわけがない。
「こっちよ三下!」
 リリン得意の鋭角的突進。低い身長を活かして素早く懐にもぐりこむと、みぞおちに肘鉄を食らわせ、まず一人。そのまま半回転しつつ斬りかかってきた足を払い、倒れた喉を踏みつけて二人。
 続けざま、落ちた五指剣を拾い上げるやリリンは、膝のバネだけで思い切り跳び上がると、唖然とする傷男の後ろに着地した。
 遅すぎる反応で、振り向き剣を走らせようとした男の喉仏に五指剣の先端が刺さる。
「顔の傷、増やしてあげよっか? それとも低い鼻、削る? いやなら倒れてるばか連れて、さっさと消えなさい!」
 まさに一喝。悶絶する仲間を引きずって、盗賊は振り返ることもなく逃げ去った。
「たく、弱いくせに威勢だけはいいんだから」
「悪いな、助かった」
 ぎろりと見開いた瞳が、傷口を押さえ息も切れ切れのアルスを睨みつけた。怒りの散弾が一流のはずの暗殺者に浴びせかけられる。
「なーにやってんのよ! もう少しで死ぬとこでしょうが。それともなに、あそこからかっこよく、ばっさばっさと撫で斬りでもしようと思ったわけ?」
「面目ない」
「あれで本気じゃないわよね。だってさっきは、あたしの後ろ、あんな簡単に取ったのに。そうよ、あれだけの動きができるくせに……やっぱ手抜いてたのね!」
 アルスは頭を深く垂れ、首を左右させた。
「本気だった」
「どういうことよ?」
 今度はリリンが、まるでわからないと首を振った。
「仕方ないんだ。風が弱すぎる」
「はあ? なにそれ」
 たしかにいまは微風。とはいっても、リリンとの遭遇時に風が強かったわけでもない。
「陽炎には翼でもあって、空でも飛んで闘うの? さっきはなかったみたいだけど」
「すまん、役立たずで」
「期待したあたしが間違ってたのね。そんな立派な剣、持ってるくせにさ。あーあ、怪我までしちゃって。ハンカチは……さっき犬の鼻拭いたっけ。しょうがないわね」
 腕の包帯をするすると外すとリリンは、アルスの腕に巻きなおした。
「そんなに深くはないと思うわ。あとで消毒してあげるから、いまはこれで我慢して」
「リリン、お、お前その手は……!?」
「やっぱり……驚いた」
 悲しげにリリンは自分の左腕に目をやった。美しい銀の毛並みが、そよ吹く風になびいていた。


 多くの人工林がそうであるように、ここもかつて輝幻石の鉱山であった。いまでも深部にはその名残、発掘のさいに掘られた横穴がいくつも見られる。
 その一つがリリンの当座の宿である。洞窟というのは見た目は悪いが、夏は涼しく冬は温かい。裕福でない旅人には重宝されていた。
「はい、これでいいわ。痛くないでしょ?」
「ああ、すまなかった」
 洞窟内を照らし出す、焚き火の明かりに浮かぶアルスの表情は暗く沈んでいた。
「いいのよ、そんな顔しなくたって。たいしたことなくて、よかったわ」
「いや、驚かないって言っときながら」
「だからいいってば! ……誰だって、驚くんだから」
 穏やかとはほど遠い口調のリリンは、どうにか心を落ち着かせようと腕全体を覆う毛を撫でつけた。それは、獣の腕だった。灰色がかった銀の柔毛は炎を映し、美しくも妖しく輝いていた。
 手袋の外された手はといえば、指こそ人間の形そのままであったが、甲にはやはり銀毛。その中央に鶏の卵ほどの大きさをした、真紅の輝幻石が埋めこまれている。
「アルスのこと、化け物なんて散々言っといて、あたしのほうがよっぽどひどいよね」
「理由、訊いていいか?」
「……王狼」
「王狼がこれを」
「そう。王狼の呪い。あたしだけじゃない。たくさんの人が同じように、身体を化け物に変えられた」
「王狼の呪い。はじめて聞いたよ」
「でしょうね。みんな、死んだもの。苦しんで、苦しみ抜いて。命だけは取り留めても心なんか壊れて当然。あたしの母さんも……」
 抱えた膝にうずめた顔から涙が地面に幾粒も吸いこまれていくのを、アルスは見ないふりをした。
「それで王狼を殺したいわけか」
「そうよ! 王狼が死ねばもしかしたら、この呪いが解けるかもしれない。ううん、絶対に解ける、信じてる」
 明かりに引き寄せられた羽虫が数匹、焦がれるあまりその身を炎に投じた。
「できるだけのことは俺もさせてもらうよ」
 ぐっと涙を拭った瞳は色こそ赤く染まれど、いつものリリンの強気があった。
「あったりまえでしょ! アルスはあたしの助手なんだから。まあ、さっきの情けない姿見ちゃったら、あんまり信用はできないけど」
「次に期待してくれ」
「はいはい、がっかりしない程度にはね。ああ、お腹空いたー。食べるもの持ってる?」
「干し肉が少しなら。ほら」
 鼻水をすするリリンに袋の奥から、包みが一つ差し出された。
「これだけしかないの」
「ないものはない。どうしてもって言うなら、いまから街に行くか? まだ、宵の口だしな」
「うーん、お風呂にも入りたいし、ふかふかのベッドも恋しいとこよね。お金ある?」
「宿代まで俺にたかる気か……」
「もう忘れたの。アルスのものは、いまのところはぜーんぶっ、あたしのものなのよ」
「拳を握りしめて力説せんでもいいだろうが。金ならそろそろ、届くはずだ」
 言いながらアルスは洞窟の入口に向かった。
「届く?」
 わけもわからないまま、干し肉を頬張りつつリリンも後に続いた。
「届くったって、ここはわからないんじゃ」
「ああ、来た来た。こっちだ!」
 けたたましい羽音を引き連れて真っ白な鳥が、手を振って合図するアルスの肩に舞い降りた。かなり大きな身体をしている。カラス二羽分はあるだろうか。しかし、なによりの特徴はと言えば、
「あ、頭が二つある!」
「こいつはプルル・ファル。双子というか、とにかく姉妹なんだ。ご苦労だったな」
「ナンダ、コノ娘ハ?」
「しゃ、喋るの!?」
 白い鳥の右側の顔がむっとした目で――少なくともリリンにはそう見えた――睨んだ。
「そこらの人間よりは、ずっと頭がいいんだぞ。ん、金はどうした?」
「しっぱいよ、アル」
「なんだとっ!」
 リリンを睨んだのとは別の顔が悲しそうにつぶやいた。
「確認ヲ怠ッタ、ソウダロウ?」
「せめちゃだめっていったでしょ、プルル!」
「いいんだ、ファル。その通りだ」
「ラシクナイ。ナニガアッタ?」
「けがしてる。そのせいなの?」
「俺が殺ったのは影だった。それだけだ」
 ひどく渋い顔でアルスは舌を打った。
「ダブルノ存在ナンテ、当然ダロウ! ダカラドウシテ確認シナカッタンダ?」
「あのさあ、どうしてそんなに怒るわけ? 失敗したってもう一回やればいいだけでしょ。そりゃまあ、警戒は厳しくなるだろうけど、陽炎なんだから難しくなんかないんだし」
「知ラレタノカ、アル!」
「ああ、溶解から戻ったときに偶然いたんだ。気づかなくてな。この子はだいじょうぶだ。誰にも喋りはしない、そうだよな」
「もちろん喋らないわ。この鳥が、もっとましな口を利けばね!」
 自分がかばわれていることに、思いが及ばぬほど鈍いリリンではない。素直にうなずくだけにとどめなかったのは、アルスを逆にかばいたかったから。自分が派手に騒ぎ立てたために、アルスは標的の確認をするまでの余裕がなかったのだから。
「黙って聞いてればさ、一回失敗したぐらいで、ぐちぐちぐちぐちと」
「ウルサイ! ナニモ知ラン小娘ハ黙レ」
「なんですってこの鳥! 丁度いいわ。焼き鳥にして食べてやるんだから」
 リリンは左手の爪をむき出しにして威嚇した。左腕は外見だけでなく、機能も猫に近い。
 鳥相手に大人げないと言うか、人げないとでも言うべきか。アルスは額に手を置き、呆れたようにため息をついた。
「ごめんなさいね、おじょうさん。でも、ヤキトリにされたらわたしがこまるの。からださえはなれてれば、なにをしてくれてもいいんだけど」
「オイ……」
「あなたも苦労するわね。こんなのと一緒じゃ」
 そうそうと、ファルの頭が深く上下した。
「でもね、カゲロウだって、そうなんどもしごとができるわけじゃないのよ。アルも、これがさいごなの。だって――」
「ファル! ……やめるんだ」
「ソウダ。コンナ頭ガ悪ソウナ小娘ニ、ナニヲ喋ッテモ無駄ダ!」
「舌引き抜くわよ、ばか鳥!」
「リリンもプルルも、いいかげんにしろよ。とにかく、自分の失敗は自分で片をつける」
「むり、しないでいいのよ。ほかのひとをはけんしたほうが」
「俺の最後の仕事だぞ。途中で投げ出すわけにいくかよ。少し休めば回復する。そうだな、五日以内。それでいいだろ」
「……わかったわ。おじょうさん、アルのこと、おねがいね。ゆっくりやすむのよ、アル」
 プルルが口を開く前に、片翼のはためきだけで双頭を持つ鳥は飛び立った。
「アタシニモ、別レノ挨拶グライサセロ!」
「だめ、おこらせるだけだから、あのこを」
「随分、アノ娘ノ肩ヲ持ツンダナ」
「やいてるんでしょ、ねえさん」
「誰ガ!」
「でも、みたわよね、あのこのて」
「ン……」
「アルがあんなにたくさんはなすの、ひさしぶりにきいた。とってもたのしそうだった。はちょうがあうのね、やっぱり」
「……ソウユウモンカ」
「そういうものよ」
 黒い空を舞う白鳥は、月の光をその翼に蓄えると、闇に飲みこまれたのかと思わせるスピードで掻き消えるように飛び去った。


「最後ってどういうこと? 説明して!」
 怪鳥からこぼれた思わせぶりな言葉をリリンは問い詰めていた。強く押し止めたアルスの態度は、あからさまに怪しかった。
「たいしたことじゃない。溶解すれば単に」
「溶解ってなに?」
「ああ、透明になって消えることを溶解って俺たちは呼ぶんだ」
「溶解すると、どうなるの?」
「疲れるんだ」
 リリンが、がくっと体勢を崩すという、これまたわかりやすいリアクションを取ったほど、極めて当然のことをアルスは答えた。
「そんな単純な……」
「息を止めて動くと苦しいだろ。溶解してる間はずっとそんな感じさ。だから、長い時間消え続けるのは無理なんだよ。俺だって、好きで素っ裸でリリンの前に出たわけじゃないぞ。限界だったんだ」
「じゃあ、林に荷物を置いてたのも」
「あそこが人目につかない場所で、しかも伯爵の屋敷に一番近かったからな。とんだ間違いだったが」
「疲れるから暗殺やめるの? やめなきゃいけないほど、負担が大きいの?」
「もう、一生分は稼いだ。あとは余生を楽しむってな」
「じじ臭いこと言うわね、まったく」
「ファルは休めとか言うが、あいつは心配性なんだ。俺はまだ二十そこそこだぞ。多少の無理はきくさ」
「ほんとにほんと?」
 アルスは大きくうなずいた。
「ほんっとーにほんと?」
「しつこいやつだな。だから嘘じゃないって」
「じゃあ、誓って」
「お前なあ、その性格直さないと嫁のもらい手ないぞ」
「ごまかされません」
「はいはい、わかりましたよ。なんに誓えばいい?」
「あなたの母さんの名前に」
 ぴくりとアルスの頬が引くついた。
「俺に母親はいない」
「亡くなったの。それでもいいわ」
「いないんだっ!!」
 ぱらぱらと、天上から土が崩れ落ちるほどの絶叫であった。
「捨てられた。だから、いないんだ。名前も知らない、知りたくもない。この剣でいいだろ。剣にかけて誓う、嘘をついてはいない」
 投げやりな言葉を終えると、アルスは焚き火に背を向け身を横たえた。
「もう寝るよ。飯は明日まで我慢してくれ」
「隣で、かわいい女の子が寝てるからって、変なこと、しないでよね。おかしなことしたら、爪で……切り裂いてやるんだから」
 リリンなりに精一杯、空気を和ませようと気をつかった言葉。小刻みに震えて響く。
「んな恐ろしいことするか。それに俺は、胸のでかい女が趣味なんだよ。おやすみ」
 小石をアルスの背中に投げつけて、リリンも眠りに就いた。謝罪の言葉も言いたいことも夢のなかで全部、ぶつけてやるつもりで。