『レディー・レフティー』 第一章 翼を広げた双頭の白鷲。 伝説の聖鳥を模したといわれる、美しくも威圧的なまでに巨大な屋敷はいま、塀を挟んで外と内、二重に取り囲まれていた。 夏の到来を疑うことさえ困難な陽射しの下、重苦しい甲冑を身にまとうはめに陥ったのは、三桁もの男の群れ。 通りを歩く若者の、木綿のシャツさえ鬱陶しく張りつく状況からして、鋼鉄の鎧がどれほどの不快を着用者に押しつけているかは想像にかたくない。 八割方の衛兵は、熱を蓄えた長槍をいまいましく思いつつも杖がわりに寄りかかり、噛み煙草に染まった苦い唾液を力なく吐き捨てるだけ。 他方、残りの男たちが気力を総動員して、職務を懸命に遂行しているかといえば、もちろんそんなわけもなく、こぼれるものが唾のかわりに悪口雑言を取り揃えたつぶやきになっただけ、始末が悪くもあった。 このような炎天を受けての長時間におよぶ重装備労働など、たしかに拷問に近い行為ではある。しかし、彼らが作り出す雰囲気がだらしなく弛んでいるのは、ただ暑さのみに原因があるわけではない。 二十人ずつ六交替制。一日の労働がわずか四時間という、笑ってしまうほど楽なシフトに変更を強いたのは、今朝方発見された怪文書であった。 屋敷の紋章――片角しか持たぬ真紅の牡牛――が彫りこまれた正門の石柱を、これ見よがしに覆い尽くしていたのは無意味に巨大な一枚紙。そこには次のような文が踊っていた。 〈明日午後三時、 輝幻石をいただきに上がります。 ――怪盗リリンより、愛をこ・め・て〉 悪戯に決まっている。誰もがそう思い、言葉にしたのも当然のことだった。 盗みを働く前に予告状を送りつけるなど、芝居のなかでも古びた話。予告時間が真っ昼間ということから判断しても、下手な冗談以外には考えようがない。 「ふられた野郎が腹いせによ、相手の女の名前使って、うさでも晴らそうとしたのさ」 そんな反応と共に丸っこい文字が並ぶ〈悪戯〉は、破り捨てられるはずであった。しかし、状況はかくの通り。人数も配備も現時点で取りうる最大の態勢が敷かれていた。 無駄かもしれず、そして明らかに苦痛を強いられる労働ではある。しかし、たとえそうであっても、与えられた命令をまともに遂行できない、このように不甲斐ない者はもちろん、レッドベリル伯爵家に仕える正規兵ではない。 彼らは人材派遣組織から送りこまれただけの、しがない傭兵崩れ。喧嘩っ早さだけが売りの男たちに拠点防衛は、そもそも向いた仕事ではなかったともいえる。 普段の警備は無論、このような無頼の輩に頼ることなく選び抜かれた腕利きの常駐兵、六十名ほどで固められる。 ところが、その内の半数以上が現在、十日前に見つかったばかりの輝幻石鉱山を守衛する任務についていた。 急な発見ということもあり、貴重極まりない鉱床を任せるに足る上質の使い手が、どの傭兵組織にも残っていなかったのだ。 結果、しわ寄せはご覧の通り屋敷の警備に。補いようのない質を仕方なく、数と短時間労働でごまかしていたというのが実状であった。 一介の地方貴族でしかなかったレッドベリル伯爵が、わずか五年あまりで大陸の東部一帯を実質的に支配するまでに勢力を拡大できた資産的理由こそ、領地で次々と発見される輝幻石の巨大鉱脈にあった。 輝幻石とは強大な魔力を秘めた鉱石の総称。色や硬度によって幾種類にも分類される。そう、見た目はもちろん質感に至るまで、普通の宝石類とまったく同じなのだ。 それにも関わらずこの石は古くから、一般の宝石より上の価値を持ち、同時に不気味がられてもいた。 なぜなら輝幻石は、最初から美しくカットされた状態で発見されるのだ。完璧な球体や正十二面体などといった形状は、自然のもたらした神秘という言葉でしか説明のしようがない。 一昔前は魔力増幅用の守護石として、魔道師間でのみ取引されていた輝幻石。 しかし、昨今の技術的進歩がその不思議な鉱石から直接魔力を抽出、利用する方法を発見し、人々の生活を飛躍的に進歩させた。 ろうそくやランプに頼ることなく、部屋の隅々を照らすことが可能になった照明器具も、地下深くから瞬時に水をくみ上げることができる自動ポンプも、動力はすべて輝幻石なのである。需要も価値も、天井知らずに高まったのも当然の理であった。 大きめの結晶は小難しい呪文なしでも魔法を放てる指輪に加工され、色が濁っていたり小さすぎるかけらはいくつかまとめて、魔力抽出溶液に放りこまれる。 いまや人々の生活は、輝幻石なしには成り立たなくなっており、その大部分がこの屋敷を中継して市場に流れていた。 「高っけえ石ばっかあっから、びびったんだろうさ。あのくそじじいはよ!」 雇われの男たちはもはや、はばかることなく批判を口にしていた。 「異常はないな?」 邸内の要所を守る正規兵。そのひとりひとりに声をかけながら、白髪の量と生えぎわの後退とが競い合いを始めた、オフレイム老警備隊長は広い屋敷を見回っていた。 「はい! ……あの、ですが隊長」 「なんじゃ? 男が口ごもるのは誉められたことではないぞ。遠慮せずに言ってみい」 「自分が思いますに、ここまで厳重な配備は必要なかったと」 「そうかもしれん。そうでないかもしれん」 「しかし、傭兵どもは隊長を誹謗するような言葉ばかり」 「あやつらだけか?」 自分の孫にも及ばない年齢の兵士が、恐縮し身を縮める姿を見て老隊長は、髭に覆われた口元にわずかな笑みを浮かべた。 「じゃがな、わしがここまで警備を固めたのにはわけがある。わかるか?」 兵士は視線を足元に落とし、しばし熟考した。そしておずおずと、自信なさげに老隊長の目を見た。 「経験からきた勘、でしょうか?」 答えの変わりにオフレイムは若い兵士の頭をはたいた。サイズの合っていなかった兜が前にずり落ちる。 「そんな下らんものに頼ったやつなど、とっくの昔に墓のなかだ。頭を使って考えろ。楽をしようとするな」 「は、はい! では、最近近隣で、押しこみ強盗の被害が多発しているとの噂を聞きました。賊の正体は皆目つかめぬそうですが、相当の使い手であることは間違いありません。その警戒の意味をこめてかと」 「それもないではないが直接の理由としては弱いの。まあよい、そうやって考えることが大切なんじゃ。ほれ、読んでみい」 差し出された二つ折りの紙片を、兵士は声を出して読み上げた。 「やっぱり少しだけ、遅れて行きますね。怪盗リリンより、溢れる愛をこ・め……これは、あのふざけた予告状の続きではないですか。これが一体、どうしたと?」 「貼りつけてあったのよ。ほれ、そこの窓に」 「そこと言われましても、ここは三階……」 指差されたガラスに近寄った若い兵士は、隊長の言葉に嘘がないと知った。美しく磨き上げられた他の窓ガラスに比しその一枚にだけ、外側からつけられた指紋や糊のような汚れがこびりついていたのだ。 「頼りない警備じゃが、寝ておるわけでもなかろう。侵入者が数段上手と考えるが自然。奇妙なやつよの。そのまま忍びこめばよいものをわざわざこんな挑発まで。自信のなせるわざか、あるいは」 口髭に手をやり、オフレイムは言葉の続きを絶った。明確な答えを期待した兵士であったが、それは与えられそうにない。 「ですが隊長。なぜ、このことを隠されていたのです? 輝幻石を盗まれでもしたら大事ではありませんか。伯爵様がどれだけお怒りになることか」 「伯爵様が恐ろしいか?」 「決してそのようなことは!」 感情を声量で隠そうとするあたりが若さというものである。 「死なぬよう、自分の身だけは守れよ。場合によっては逃げても構わん」 焦点のずれた返答を残して立ち去ろうとする背中に、まとまりきらない声が飛ぶ。 「そ、それはあまりに無責任……そんなに私が未熟だと!」 「許せ、お前を侮ったわけではない」 「ならばなぜ?」 「輝幻石などどうでもよい、誰にも怪我はなかったろうな? お前の仕える主人はきっと、そう言って下さるお人だ……少なくとも、昔はな」 言葉の最後は、老隊長の唇から先に出ることなく消えていった。 「そろそろ時間じゃ。忘れるな。戦場で生き残るのはどこまでも考えて行動した者、でなければ臆病者だけだ。この、くそじじいのようにな」 豪快に笑いながらオフレイムは自分の持ち場、伯爵の執務室前へと足を急がせた。その大声の半ばは自棄、残り半分が悲しみで織り上げられていることに気づけるほど、若い兵士には経験も余裕もなかった。 気温が最高点を維持したまま、教会の機械時計が予告時間を打った。澱んだ雰囲気に瞬間張りが戻る。 市街から流れ響く金属音が大気を震わすわずかな間だけ男たちは、自分の仕事を思い出したかのように鋭い視線を周囲に走らせ、長槍を握る手にも力をこめた。 しかし、三つ目の鐘が鳴り終わってもなんらの異変もなく、余韻もすっかり消え去った庭内ではかわりに笑声が沸き上がった。 「ほら見てみやがれ。なにも起こりゃしなかったろうが」 「はっ、よく言うぜ。鐘が鳴ってる間はよ、くそまじめな面してやがったくせに」 多くは仲間たちと軽口を叩き合いながらその場に座りこみ、重苦しい鎧を脱ぎ捨てた。 「ったく、暑いのにばか見せられたもんだぜ」 門柱の影で、姑息に陽射しを凌いでいた男は大袈裟とも言える溜息を吐き、仲間がしているように庭中央の噴水で顔を洗おうと、立ち上がりかけた。 「あのう、すいません。ここ、レッドベリル伯爵様のお屋敷ですよね?」 かわいらしい響き。男は中腰のまま声の主を視界に入れるや、だらりと目尻を下げた。 声相応に、あどけなさの残る表情は笑顔に彩られ、新緑をもらい受けた瞳が上目遣いに視線を向けている。歳の頃なら十五、六といったところか。 女性の匂いにはまだ乏しい小柄な身体を少女は、淡色を基調とした旅装束に身を包んでいた。旅装束といえども最近は、丈夫で通気性がいいのは当たり前。見た目も重視した作りが主流である。 特に夏用は肌の露出も多く、少女が着ている服も流行に沿ったものであった。身体のラインを強調するきつめの上着にショートパンツ。腰には薄布が巻かれ、恥ずかしげに伸びる細い足を隠すように垂れ下がっている。 ただ、少女は大きな怪我でもしているのか、左腕の手首から袖口までを真っ白な布でびっちりと幾重にも包んでいた。手のひらには大きな手袋までが。 「そうだが。嬢ちゃん、なにかようかい?」 少女は笑みを浮かべたまま、ゆっくりとうなずいた。 「はじめまして……怪盗リリン、ただいま参上!」 名乗ると同時、男が聞き返す暇さえ与えずに、突き出した左手から炎の塊が出現した。 渦巻く炎塊は、反射的にしゃがみこんだ男の頭頂部を焼き焦がしただけにはもちろんとどまらず、巨大な噴水を轟音と共に、跡形もなく吹き飛ばした。 呆然と魔法の放たれた方向を見やる男たちに、大小破片と水しぶきが降り注ぐ。 賊だっ! 痛みと冷たさで正気を取り戻した何人かは、たしかにそう叫んだ。けれど、続けざまに迫り来る爆風は容赦を知らず、彼らには身を伏せる以外にとる術はなし。 たしかにこれは、緋の輝幻石を介して発生させた火炎魔法。しかし、なんだというのだ、このばかげたほど凄まじい威力は。 プールほどはあろうかという噴水を一撃で粉砕しただけでは飽き足らず、休むことを知らずに連続で大地をえぐる炎は、太陽神より落とされた怒りの鉄槌のようでさえある。 男たちに残っていた微小な戦闘意欲も間断なく襲い来る恐怖に根こそぎ奪い取られ、侵入者に歯向かおうなどといった蛮勇を持つ者は、ひとりとしてない。 戦意の喪失に気づいたリリンはようやくに攻撃をやめ、砂塵混じりの白煙へ身を進めた。 「ちょっとだけ、はりきりすぎたかしら」 ざらつく空気に咳を一つ返し、蜂蜜色の髪を肩からかき上げてリリンは呟いた。 常人の感覚からすれば、ちょっとどころではない惨状である。それを、 「ま、いっか」 の一言ですませるあたり、底知れぬ末恐ろしさを感じさせてくれる。 めくれ上がった地面に横たわったまま、呼吸さえ止めようとする男たち。その臆病な身体を明らかにわざと、リリンは踏みつけ進む。 わぎゃ、などとくぐもった叫びが、リリンが一歩を踏み出すたびに響いた。 「調子に乗んじゃねえぞ、チビガキ!」 したたかに頭を踏みつけられた男が怒りを抑えきれず、背後から猛然と突進を試みた。 怒声が届いた証拠にリリンは立ち止まった。しかし、振り返ることもしなければ逃げる素振りもない。 猛る巨体が華奢な少女の背中にぶち当たったと見えた瞬間、リリンは素早い側転から男の背後に回りこんだかと思うと、丸太のような膝裏にローキック一閃。たまらず片膝をついた男の、さらけ出された延髄に間髪入れず、強烈な蹴りを叩きこんだ。男の背筋が一瞬反り返り、反動のように前に倒れ伏す。 「三百六十五歩譲ってガキだけならともかく、よっくも人が心の底から気にしてること付け加えたわね! あんたなんか無用にでかいだけじゃない。謝んなさいでかぶつ、この、このっ!」 リリンは男の後頭部を何度となく踏みにじった。それはもう、たっぷりと。肩が荒く上下するまで。 「あ、謝れったってよ、そいつは気ぃ失ってるじゃねえか。もう許してやってくれ。な、頼む」 哀れな男の顔面が半分近く地中に埋まったとき、ようやく仲間が助けの言葉を投げた。しかし、その情けなさに溢れた懇願に、リリンは容赦ない口調を返した。 「あんたたち、それでも男? なにが、許してやってくれ、よ。力ずくで助けようとは思わないの? だらしなく寝転んであたしをやりすごそうなんて、根性ないわね。お金貰ってるんならそれだけの、ちゃんとした仕事しなさいよ。この弱虫の給料泥棒!」 かつては傭兵として戦場を駆け巡った男たち。運も技量もなく、自分ひとりの自由さえ勝ち取れなかった、情けない男たち。 腰抜け! 臆病者! 給料泥棒! 失敗を重ねつつも、おめおめと生き延びるたび、何度も投げつけられた忌むべき言葉。それがいま、年端もいかぬ少女から再び浴びせられたのだ。 どうせ俺たちにゃあ、かないっこない。 たしかにその通りかもしれない。しかしそれでも譲れないものがあったから、ここにいる男たちの誰もが剣に、しがみついているのではないか…… 「てめえらっ! こんな小娘になめられっぱなしでいいのかよ。息が整ってねえ、いまがチャンスだ!」 立ち上がったひとりが発した腹からの絶叫に呼応し、心深くに沈んでいたプライドが怒りと共に吹き上がった。太陽を受けてきらめく剣や槍がリリンに向けて構えられる。 目元にはっきりと、隠しようのない動揺を浮かべたリリン。しばしうつむき、地面をこするように数歩あとずさると、おもむろに身を反転させて駆け出した。 「逃がすんじゃねえぞ!」 男たちは勢いづき、一斉に後を追った。 だがリリンは、恐れをなして逃げ出したわけでは決してない。その証拠にうつむいた瞬間彼女は、ふっと鼻で笑ったのだ。 やみくもにつかみかかろうとする男たちを、俊敏かつ鋭角的なステップで次々にかわしながら、握った左拳になにやら言葉を落とす。 と、開かれた手のひらから次々、五つもの炎が浮き上がった。先程までの、見ただけで凶悪とわかる巨大さはなく、せいぜい鶏の卵ほどしかないその火球は男たちの間をすり抜け、固く閉じたままの扉に突き刺さった。 鈍い爆発音めがけ、獲物を狩る肉食獣を想起させる低い姿勢を保ったまま、リリンは走った。彼女を追う、何十人をも引き連れて。 街中に轟きそうな騒ぎは当然、賊の侵入を屋敷内部の正規兵に知らしめていた。美しい庭が無残に破壊されていく様を窓越しに歯噛みしながら見つつも彼らは、自ら討って出ようとはしない。 いま出て行けば混乱に巻かれ、敵の思うつぼ。ここは持ち場を堅持し、待つしかないことを一流の戦士たちは理解しているのだ。激情に流されることはない。知り尽くした屋敷内ならば、地の利がどちらにあるかなどは明らか。なにしろこの建物の造りは、よそとはひと味もふた味も違うのだから。 正面扉を開けるとすぐに、なんの仕切りにも邪魔されることなく、華やかに飾られたダンスフロアが広がるのをはじめとし、登っているつもりでも地下に続いている階段、足を乗せたとたんに進み出す廊下など、思いもよらぬ趣向、仕掛けが数多く存在する。 なにより、あの派手な魔法は屋内戦には不向き。四方を壁に囲まれた場所では、自らの威力ゆえに自滅の可能性が高く――爆風の吹き返しを術者自身が受けてしまう――使うことが不可能とまでは言わなくとも、威力は激減するはず。 そんな答えを多くの古参兵は早くも弾き出していた。外の百余人が賊を捕らえることなど考えもしない。いや、最初から存在すらないものとして、この計算は成り立っていた。 「来たぞ。容赦するな!」 凛とした短い命令に、四人が次々と抜剣で応える。第一部隊五名は正面大扉すぐ、いまや遅しとリリンを待ち構えていた。 扉が数度振動し、焦げた匂いを漂わせたと同時、ぶ厚い合板は木屑へと形を変えた。もうもうと立ち昇る黒煙をかき分け、躍動する身体が邸内に飛びこんでくる。 「死ね!」 一斉に斬りかかった五つの刃は、しかし煙を裂いただけ。 「ど、どこだ!?」 「上だ、跳んだんだ!」 天上に下がるシャンデリアの縁に、リリンは腰かけ頬笑んでいた。煙幕の向こうに人影を認めていた彼女は屋敷に足を踏み入れるやいなや助走を活かし、跳び上がったのだ。 とはいえ、きらびやかな装飾もまぶしい照明までは跳ぶではなく、飛んだと表現しなければ届きようのない高さである。 リリンの持つ常識外れの力は魔力だけでなく、跳躍力までも該当するらしい。 「下りてこい!」 叫ぶ男に余裕のウインクを返してリリンは、あっちあっち、と砕け散った扉の方向を指差した。我先にと駆け入ったのは夢中でリリンを追走する、傭兵崩れの面々。あっという間にフロアは人で溢れ返った。 「くそ、出て行け! 早く出て行かんか馬鹿者どもが!」 押し寄せる人の流れに逆らって、まともな身動きひとつ取れなくなった正規兵の叫びに、握った拳が唸りを上げた。 「いつもいっつも、楽な場所で威張りくさるだけのくせしやがって。てめえらも外で突っ立ってみやがれ!」 蘇った闘志は溜まった鬱憤と相まって、相手構わぬ大乱闘へと発展した。 「ふふっ、うまくいったわ」 もみくちゃの惨状をおかしそうに見下ろし、リリンは小さくうなずいた。そう。すべてはリリンの手のひらの上での展開だった。 不気味に静まり返る邸内に、一筋縄ではいかない手ごわさを感じ取ったリリンは、故意に挑発的な態度を示して男たちを興奮に導き、この混乱の手駒としたのだ。 もっとも、最初から計算し尽くされた完璧な計画、などといった大層なものではなく、爆発してしまった感情を即興で有効活用しただけなのだが。 乱闘の見物をやめ、視線を上げたリリンはゆっくりと、なにかを探すように首を左右させた。このダンスホールから、屋敷の奥へと続く通路は三つ。右左両側の扉と中央階段。 「そこね」 なだらかに伸びるクリスタル階段を登りきった壁脇。斥候役の兵士の低く抑えた頭部を、リリンは見逃さなかった。 すかさずシャンデリアを支える、鉄の主軸を利用して床と平行、鉄棒の要領で激しく回転運動を始めたリリン。数珠に繋がれたガラス球がいくつもいくつも、振動に負けて本体から落ちる。 充分な勢いを得たリリンは一直線に宙を舞い、見事階段の踊り場に接地した。 顔から、ではあったが。 無色透明の強化クリスタルで造られたこの階段は、いわば一つの芸術作品であった。遠目から見ればまるで、空中を歩いているのかと錯覚させられる。 「いったーい! 下見えるから、遠近感つかめなかっ――」 顔を支点に飛翔の勢いそのまま、前転で起き上がったリリン。その不確かな足元で、数本の矢尻が音を立てて跳ねた。 「飛び道具なんて卑怯、わきゃっ!」 反射的に首を傾けなければ、眉間を射抜いた一矢であった。矢羽根がかすめた頬に、右手を当てたリリンは、その手を肌に置いたまま、ゆっくりとスライドさせた。微量の血臭が鼻腔に広がっていく。 「よくも……やったわね」 怒り爆発! かと思いきやリリンはその場にしゃがみこみ、声を上げて泣き出してしまったではないか。 「あたしなんにも、なんにも悪いことしてないのに……」 「嘘つけっ!!」 正規兵も傭兵崩れも関係なく、すべての心が一つになった、記念すべき瞬間であった。 「てへっ、やっぱり?」 嘘泣きをやめ、ぺろっと舌を出したその瞬間、本日数えて十九発目となる火炎が階段上に投げつけられた。 さすがに力をセーブしたのか、屋外で見せた派手さはない。が、それでも直撃をくらえば、火傷ですむなら非常に運がいいというレベルは保たれている。 爆風と爆煙が絡み合いながら巻き上がるなかに、リリンの舌打ちが加わった。薄れ行く煙の向こう側、階段の横幅いっぱいに銀の板が並んでいたのだ。その数、四枚。 鍛え上げた鋼鉄板を何枚も重ね、さらに魔法の威力を殺し流すよう表面を微妙に彫り磨いて加工された、重装歩兵用の強化楯である。どれだけ魔法に威力があったとしても、理論上この楯には通用しない。 対魔道師部隊の切り札として開発されたこの楯が出てきたということは、次なる攻撃方法はおのずから明らか。 「前進!」 がしゃがしゃと甲冑を揺らしきしませ、整然とそして勇猛に隙間ない圧力がリリンを追いつめるべく階段を降りる。 後方に活路を見いだそうにも、後ろは後ろで統制を取り戻しつつあった男たちが群れ迫る。とすれば、リリンが取りうる選択肢は一つしかないはずであり、その行動予測に基づいて防衛側は、次のような流れで勝利を描ききっていた。 間合いを詰める重装歩兵は、並外れた跳躍力で跳び越される。階段上の第二陣は大楯を構え、やぶれかぶれに放たれるであろう、魔法に対する防御のみに専念。 それさえ凌げば第三陣、弓箭部隊が楯越しに無防備な空中の身体を射抜くだけ。このわずかな距離。数人がかり時間差で撃てば、矢のほうが魔法より間違いなく速い。 魔法を連発しながら階段を駆け降り、混乱に紛れ逃走を試みる。そんな可能性もないではないが、背中を見せた瞬間に射殺せばそれですむ。 失敗などしようのない完璧な作戦であった。相手がこの、リリンでさえなければ。 はたして、たしかにリリンは跳んだ。正確に言えば軽く跳び乗った。幼子の腕の太さもない、円柱形の手摺りに。 すかさず迷わず遠慮なく、数瞬前まで立っていた踊り場めがけ、渾身の炎が叩きつけられた。 思いもよらぬ行動に対処できず、硬直する重装歩兵をそのままに、みしみしと嫌な音を響かせて、美しい階段が真っ二つに割れ落ちていく。 階段を破壊するなんて危険極まりない手段を取ろうとは、いくら一流の正規兵であろうと予想できるはずがない。はっきり言って、むちゃくちゃである。 階段なかほどにいた重装歩兵はもちろん重力に従い落下。上の四人は驚きに統制を乱され、お互いに押し合って転倒。自らの装備の重さゆえ、ひとりでは起き上がれない。 残された射手が正気に返ったときには、もう遅かった。 ただでさえバランスをとることが難しい、手摺りという足場。それが崩れ落ちるわずかな間にリリンは、まるで猫のように素早く頂上まで、一息に駆け上がっていたのだ。 あっさりと懐に入ったリリンは流れる体捌きで当て身をくらわし、次々と意識を奪い去っていった。 「つーぎいってみよー!」 自らの引き起こした、この悲惨な有り様を顧みようとさえせず、歌うような口ぶりでリリンは、屋敷の奥へとスキップで姿を消した。 「ふむ、なかなか派手にやりおるわい。ちと、見くびっておったな」 感嘆と後悔の入り交じった台詞をこぼした老隊長の背後で、扉を打つ音が強く短く打ち鳴った。 「いまの音はなんだ、オフレイム?」 平坦な声が扉越しに問う。 「賊が空中階段を破壊したものだと」 「使える兵は何人いる?」 「わしを含めてここに五名。隠し階段、上がってすぐに四名」 「少ないな」 「いないものは仕方ありますまい」 主君に対しては少々無礼ともいえる、刺のある言葉をオフレイムは返した。 「……任せてよいのだな?」 「無論にございます」 オフレイムは大股で一歩踏み出すと、類まれなる大声量を駆使し、残った全ての兵に命令の念押しをしようとした。 「持場堅持! なにがあろうと――」 しかし、下から突き上げる轟音と振動の連続が、その声さえも覆い潰してしまった。 「さてさて、兵隊さんはどこにいるのかしら。おーい、怪盗リリンはここにいますよー!」 別にリリンは兵士を殲滅させようと目論んで、あちこち歩き回っているわけではない。 警備あるところ貴重品あり。 この格言を忠実に守っているだけである。警備兵は言ってしまえば格好の目印。わざわざ予告状を使ったのも、警備の配置を明確にするため。この広すぎる屋敷をくまなく探すなんて無駄な労力をリリンが嫌ったからでもあった。 しかし、呼べど探せど気配の一つも見つからない。設計者の思惑通り、この広すぎる屋敷は不慣れなリリンにとって、すでに迷宮と化していた。 「同じ模様の壁ばっかりで、わけわかんないわね……そうだ!」 壁に目印をつけて進みましょう! などといった、安全かつ一般的な解決法を思いつくほど、リリンの思考回路は甘くない。 「壁があるから悪いのよ。全部壊せばいいじゃない!」 かくして、二十いくつもの部屋の数々はこれからしばらくの間、巨大な一つの部屋として機能するよう、不幸な運命を押しつけられたのであった。 「行かせて下さい、隊長!」 「賊はこの真下です。このまま手をこまねくわけには!」 忍耐にも限度がある。オフレイムを囲むどの瞳もが、そう叫んでいた。これだけの無法を尽くされて、しかも腕に覚えがある者揃い、黙っていることなどできようはずがない。 そんな熱い勢いに押されつつもオフレイムは、かたくなとも取れる命令を繰り返した。 「持場を堅持せよ。焦らずとも賊はここを目指しておる」 「しかし、このままでは我等は、後手後手に回るしかありません。賊が階段を発見できないいまなら、機先を制することが」 「護衛とは常に、不利であろうがなかろうが相手の攻撃を凌ぎきるもの。それとも汝らには、それだけの器量がないか?」 「……貴方は噂通り、ただの臆病者だ。勝手に出て行き、なにくわぬ顔で戻って隊長の大任を受けたというのに。もういい!」 そう言い捨てるや、さきほど肩すかしを食らった若い兵士は、片角の牡牛が彫り描かれた正規兵の証である腕輪を床に叩きつけた。 甲高く鳴り響く金属音は一つだけでなく、その後に連続して続いた。 たったひとり取り残されたオフレイムは、それでも執務室前を離れようとはしなかった。 意地、などといった卑俗なものではない。それは自身が否定した、長年蓄積した経験から呼び起こされた勘としか表現しようのない、胸騒ぎがさせた選択であった。 オフレイムは抜剣し、ゆっくりと熱い息を吐いた。そして、わずかばかりあとずさったその刹那、老隊長の黒い瞳には突き立つ火柱が映りこんだ。 「この辺だと思ったんだけど……あっ、どんぴしゃ」 火柱によって造られた廊下の幅いっぱいに開いたその穴から、リリンが跳び出し現れた。 「ねえ、おじいちゃん。ここ、伯爵の部屋よね。そうでしょ?」 剣を握る、険しい顔を目にしてもリリンはまったく恐れる様子などなく、屈託のない表情を浮かべたままで尋ねた。 「どうしてここがわかった? 嬢ちゃん」 「それは、あ、ちょっと待ってね」 リリンは身体ごと振り返ると、大きく開いた床穴をさらに、廊下の向こう端まで魔法で焼き広げた。 「これで邪魔されないわ」 「なるほど。これでは飛び越せんな」 感心が浮かべさせた苦笑を隠そうともせず、オフレイムは大きくうなずいた。 「金属が跳ねる音がしたから、ここに人がいるってわかったの」 「いい耳をしておるな」 「まあね。おじいちゃんは部下には恵まれてないみたいね」 「……まあの」 振り返ってリリンは穴の先、口汚く罵るしかできない男たちを一瞥し、余裕の表情で舌を出してやった。 「おっかない剣、しまってくれないかしら?」 「嬢ちゃんが黙ってここから出て行ってくれるというのなら、そうしよう」 「それはちょっと無理な相談ね。予告したことはやり遂げる主義なの。おじいちゃん強そうだから、ほんとは逃げ出したいんだけどね」 「そうか……では、参る!」 繰り出された斬撃は鋭かった。リリンの想像以下、年相応ではあったが。 剣の間合いから巧みに外れるや、床や壁、果ては天上までを蹴って加速を続けるリリンのスピードには、悲しいかな対処できる若さがない。特に、落ちこんだ動体視力ではリリンの残像を捉えるのでさえ、やっとというのが視線の運びから見て取れる。 リリンの手刀が後頭部に振り降ろされるまで、わずか瞬き十六回。結果だけ見れば、あっけないものであった。 「歳なんだから、無理しないほうがいいわよ」 小さくつぶやいてリリンは、うつぶせに倒れたオフレイムの身体をどうにか引きずり起こし、壁にもたれ座らせた。勇敢な老戦士へ、せめてもの敬意を表したのだ。 そしてリリンは黒檀の扉へ、今日六十二発目となる火球を放とうと腕を振り上げた。が、 「あっと、限界ね」 手袋に包まれた拳が紅く点滅する様子に気づいたリリンは、いとおしそうにその手を撫でた。 「ありがと。休んでて」 採掘された輝幻石のほとんどは市場に出るまで、この屋敷の地下倉庫に保管される。しかし、リリンの狙いはそんな、金を積めば買えるような小物ではなかった。 レッドベリル伯爵のコレクション――一万粒に一つ以下の割合で発見されるという、大人の拳はあると噂される巨大な結晶。 獲物はそれをおいて他にない。 「だいたい、そういう、大事な物は、四六時中、自分の、目の、届く場所に、隠す、ものなのよね、っと」 リリンは力の限りを尽くして、派手さはないが重厚極まりない扉を押し開けていた。 大盤振る舞いしたツケなのか、魔法の発動を取り止めたリリンはオフレイムの大剣を拝借し、ノブごと鍵を砕き割ったのだ。 「やっと開いたー。おっじゃましまーすっ!」 そんな呑気な言葉とは裏腹、扉を開け放つやリリンは素早く身を隠した。毒矢などといった、罠の存在を疑っていたのだ。 「だいじょぶみたいね、よし」 確認するようにつぶやくと、遠慮のかけらもなく室内に進み入ったリリン。目の前には、特殊な銀の仮面で顔左半分を覆った男が、ゆったりとした椅子の背もたれに身体をあずける姿があった。 「あなたが伯爵ね! いいえ、隠したって無駄よ。噂通りの半仮面、それがなにより動かぬ証拠……って、聞いてますかー?」 元気いっぱい、リリンの声が部屋に溢れたにも関わらず、レッドベリル伯爵は驚きというリアクションさえ返そうとはしない。 だらりと垂れた両腕。うなだれた首。それは疲労に負け、眠りこけている姿にも見えたがその実、すべての生命活動が停止した姿であった。 リリンは慎重に数歩、伯爵の下へ歩みを進めながら瞼を閉じた。意識を集中させた聴覚にも、呼吸音すら届きはしない。 そのかわりにリリンの鼻を、ほんの微かながら血の匂いが漂いついた。 「死んでる……どういうことよ?」 温かさの残る手首で脈を確認したが、リズミカルな拍動は返ってこない。 くまなく全身を観察しようと、恐れより好奇心が勝った瞳を近づけ寄せたそのとき、伯爵の死体が椅子から転げ落ちた。 金切り声が空気を裂くあたり、ようやく少女の一面を垣間見せたリリンではあった。がしかし、いつまでも怖がっていないのが、彼女らしいといえばらしくある。 心臓に悪いわ、などとぼやきつつも伯爵の死因に興味は、ただ奪われていた。 「凶器凶器はっと……えっ、これなの?」 伯爵の後頭部、それも目と耳を結ぶ線上、つまりは正確に延髄を貫いていた羽ペンを、リリンは引き抜いた。 「すごいわ。こんな物で人を殺せるなんて、相当熟練した暗殺者でないと」 「は、伯爵様!」 大穴に足止めを食っていた兵士たちがようやく、窓を伝って駆け参じた。 「どうした……なっ、伯爵様が! 早く医者を呼べ!」 「とっくに死んでるんだけど」 リリンは素直に事実を伝えた。しかし、 「おのれこの女、伯爵様を手にかけるとは!」 「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。あたしは怪盗。人を殺すわけがないでしょ!」 「どこの世界に貴様のような、危険極まりない怪盗がいる。この押しこみ強盗が!」 「誰が押しこみ強盗よ! ……まあ、今日はね、ほんのちょっとだけ、やりすぎたかもしれないけどさ」 さすがの怪盗リリンも無自覚ではなかったらしい。 「ここは我等が今朝から、一時も離れずに警護していたのだ。お前以外の不審者など誰も通ってはない」 「なにが一時も離れずに、よ。さっきいなかったくせにさ」 「そ、それは……ええいうるさい! とにかく、犯人はお前以外にない。その手に持った凶器が動かぬ証拠だ!」 「これはいま、あたしが首に――」 「認めたな!」 「違うってば! 首に刺さってたのを抜いただけ。暗殺者かなんかが、どっかから忍びこんだのよ。半仮面卿っていえば最近評判、めちゃくちゃ悪いし」 「黙れ黙れいっ! この部屋に暗殺者などが入りこむ隙なぞない!」 たしかに部屋は扉以外、すべてが壁。空気を入れ換えるための小窓も、光を入れるための天窓さえもなかった。 「おとなしく降伏しろ。いまなら慈悲で縛り首と斬首、好きな方を選ばせてやる」 ひどい慈悲もあったものである。 「だからやってないってば! あたしは絶対、人は殺さないんだから!」 涙ぐんだリリンにも容赦はなく、じりじり包囲は狭まっていく。 「言い合ってるうちに囲まれるぞ。逃げろ、扉めがけてまっすぐ身体ごと当たれ」 「えっ?」 リリンの耳元、それも後方からたしかに姿なき小声が囁いた。 「だ、誰よ?」 「急げ」 声の指摘通り、どんな弁解もこの状況では通じるべくもない。捕らえられれば裁判もなく処刑されるのは、火を見るより明らか。 とはいえ、魔法が使えなくなったいま、リリンに残された手札は素早い動きで攪乱逃走するだけ。それゆえに、一つしかない出口を強化楯で塞がれているこの状態は素直に苦しい。どれだけフェイントを踏もうが、最後に目指す場所がわかりきっている以上、リリンの不利は動かないのだ。 「まっすぐ、身体ごと」 小さく繰り返したリリンは身を低く押さえ、小細工なしに突っこんだ。下手に疲れる前に、渾身の力を叩きつけることこそ上策と判断したのだ。 「なにっ!?」 魔法がくるとばかり思いこんでいた男たちは動揺を声にまでした。 強化楯に激突する直前、目を閉じ歯を食いしばったリリン。完全防備の相手は鉄壁と言い換えることができる。運よく弾き飛ばすことができても、骨の数本が折れ砕けるのは覚悟していた……のだが。 「あにゃっ?」 なんの抵抗もなくリリンの身体は包囲から抜けていた。 「女の突進に逃げるな腰抜け野郎っ!」 「誰かが後ろから押した! 本当だっ!」 なにが起きたかはわからなかったが、リリンは心で喝采を叫んだ。本当に叫ばなかったのは勢いあまった身体が窓を突き破り落下、口は悲鳴に使われていたからである。 三階からのダイブ。迫る固い地面。そのわずかな、時間というよりは隙のなか、リリンは空中で身体を捻りこみ、猫もかくやの動きで見事に着地を果たした。少し足は痺れはしたたが、構わずリリンは駆け出した。 リリンはやすやすと逃げきった……かといえば、そんな都合よくいくわけもなく、またぞろ大勢を引き連れて、大通りを駆け回る持久走を強いられていた。 決して遅いわけではないが稲妻のような瞬発力に比せば、常識の範囲内の走りである。 夕食の献立を考えながらぼんやりと歩いていた主婦の面々は、追われているのが年端もいかぬ少女という事実に、目を丸くして立ち止まった。 元気のあり余った御令嬢が、お付きの兵士の言うことを聞かずに逃げ回っている。 想像力過多かつ噂好きの主婦には、そんな妄想をしたものもいた。 「止まれこのガキ!」 「止まるわけないでしょ、ばーかっ!」 こんな言い合いが耳に入るまでの、束の間のことではあったが。 「ったく、もう、しつこい、わね」 後ろとの距離が詰まるなか、息を切らしたリリンはようやくの思いで目的の場所へたどり着いた。買い物客でごった返す、商店街に。 さすがにレッドベリル伯爵領は、輝幻石の産出地だけあって景気がいい。この商店街は終日、人が溢れていた。 人と人との微妙な隙間も小柄なリリンにとっては充分な道である。大男たちが怒鳴り散らす声を背中で聞きながら、軽快なステップでリリンはその姿を人波にまぎらせた。 「はあっ、疲っかれたー。おっじさん、オレンジジュースちょうだい。そ、おっきいほう」 追手を振り切ったと確信したリリンは露店で飲み物をテイクアウトし、ストローをくわえながら森の方角へと歩いた。 ところが、である。後方からけたたましい咆哮の重なりが、余裕をこいていたリリンに迫ってきたではないか。 「強化犬……こんな化け物まで飼ってたの」 強化犬とは犬の脳内に小さな輝幻石を埋め込んで製造した、改造犬である。原理や仕組みはまったく不明だが、そうやって作り出された犬のほとんどは凶暴な性格をむき出しにするようになる。 体躯の巨大化はもちろん、爪や牙の鋭角化、果ては額や胸元から、長い角まで生える固体も珍しくはない。 もちろんこれらの変化は手術が成功した場合――幸運にも命が繋ぎ止められた場合に限られる。犬にとって生き延びることが、幸せかどうかはまた別の話であるが。 リリンは舌を打ち鳴らしただけで、逃げようとはしなかった。強化犬のスピードは人間が遠く及ぶものではないことなど、五歳の子供でも知っている常識。 三匹の強化犬は低く唸りながらリリンの前面、半円を描くよう展開した。対してリリンは強い眼光で強化犬を睨みつけ、毛先ほどの隙も見せぬよう気を張りながら、カタツムリの歩みもかくやの慎重さで後退する。 空を飛ぶ、水に潜る。強化犬から完全に逃げきる道はこの二つしかない。 幸いリリンの背後には木々の群れが広がっている。木に登れば、ひとまずやり過ごすことは可能だ。そこまでどうにか、この間合いを保ったまま行かねばならない。 そんな思惑を読み取りでもしたのか強化犬は一吠えすると、おもむろに飛びかかった。 一匹だけならそれでも、リリンの体術を最大限に駆使すれば組み敷けない敵ではない。けれど、厳しく仕込まれたこの獣たちの攻めは俗にいう三位一体。唾液で濡れ光る牙が、喉、腹、足と、それぞれ別の箇所を襲う。 避けられないと見えた先制攻撃。飲みかけのオレンジジュースがリリンを救った。 首を狙いきた鼻頭に紙コップごと液体をぶつけ、上方に隙を作り出したリリンは下の二匹を踏み上がりつつ、後ろにとんぼをきったのだ。 ギャンギャンと、苦しそうに鼻のあたりを掻きむしる犬は戦力から除外されたが、それでも状況は悪化した。強化犬はリリンの爪先が接地したかしないかのときには、すでに前後に布陣――要は挟まれたのだ。 お互いに等間隔を保ったまま、強化犬はリリンを軸に回転をはじめた。少しずつ、しかし明らかに、描かれる円の面積は小さくなっていく。 絶えず死角を取られるいまを、絶体絶命と人は呼ぶ。このまま、再度飛びかかられでもしたら、さしものリリンでも逃れる術はない。 がそのとき、二匹の歩む速度にわずかながら時間差が生じた。リリンの視界の端と端、ぎりぎりながら二匹ともの動きが入った。 いましかない! リリンは走った。すぐそこにある立ち木を目指して。けれど、 「…………っ!」 声にならない声が噛んだ唇から漏れる。動きを読まれていた、否、弄ばれていたのだ。猟犬が必死に生きようとする野うさぎを追いつめて楽しむように。 状況は変化することなく強化犬はまた、リリンの周囲を回る。もう何回遊んでやろう、そんな雰囲気をぷんぷんと漂わせながら。 目を伏せるリリン。表情が消えた。 「……調子に乗んじゃないわよ、犬っ!」 ふーっ! という喉の奥からの唸り声が、叫び終えたリリンから発せられたかと思うと、肩まで垂れていた髪が天を突いた。腕の産毛も残らず逆立つ。怒気と闘気のブレンドが、全身の毛穴から針金のように突き出した。 強化犬といえども動物に違いはなく、その本能は力の強弱に敏感である。負けるとわかりきった戦いは決して挑まない。利口な強化犬は尻尾を股の間に入れると仰向けに腹を見せた。降伏を示すポーズである。 「よしよし、わかればいいの。気をつけて帰るのよ」 リリンは二匹の腹を軽く撫で、取り出したハンカチでオレンジジュースに苦しむ犬の鼻も拭ってやった。 「これやると、髪が乱れるからやなのよね」 うなだれる犬たちとは逆方向、生い茂る木々の群れに、寝起きのごとく爆発した頭のリリンは姿を消した。 |