浅い眠りは、打ち叩かれる扉の音に破られた。重い瞼をこすりながらフレイアは、チェルの呼吸だけ確認し、玄関に急いだ。
「いま開け、あっ……」
 フレイアは顔の前に手をかざし、半歩後退った。銀の毛布に反射した陽光に、視覚を奪われて。
 ゆっくりと回復していく視界の中心に、かわいそうになるほどの荷物を積まれた馬の輪郭線。その傍らには肩で息をし、汗を滲ませた夫人が立っていた。
「持って、来たわよ。わざわざ、こんな日に、積もらなくたっていいのにねえ」
「歩いて来たんですか?」
「どこかに、乗る場所、ある?」
「ないですね」
 微笑んだフレイアは深く頭を下げると、荷物を下ろしにかかった。
「持てるかい? 小分けにはしたけど」
「はい」
 小麦粉、腸詰、生地などと、箱や袋にはいちいち明記してあり、中身を確認しなくともいいよう、配慮がなされてあった。
「あら?」
 ところが、馬上に残った最後の包みは、なぜだか白一色。何気なしに開けてみると、
「コート……」
「そ、それはその、あんまりくたびれたのを着てたし、それに」
 とっくに乾いた、額の汗を拭う仕草で夫人は小さく続けた。もうすぐ誕生日だろ、と。
「覚えてて、くれたんですか」
「着て、見せてくれるかい」
 それは、あつらえたように華奢なフレイアの身体を覆った。
「ありがとうございます。嬉しい……」
「よく似合うわよ」
 満足気に頷くと夫人は、馬の手綱を握った。
「お茶ぐらい、飲んで行ってください」
「遠慮しとくよ。店も放って来た――」
 大きな咳と共に、フレイアがその場にしゃがみ込んだ。
「どうしたんだい!?」
 その問いに答えようと、歪む顔を上げたフレイアだったが、言葉は出ない。
「喋らないの!」
 荷物のように小脇に抱えられ、引きずられながら屋内に運ばれたフレイアであったが、
「紅茶でいいですか?」
 炎からの暖気を頬に受けると、何事もなかったように婦人の腕をすり抜け、戸棚のティーカップを手に取った。
「なっ……」
「お茶の一杯もご馳走しないなんて、母に叱られます。そこに、掛けて下さい」
 呆気に取られていた夫人の表情に、強い笑みが浮かんだ。
「蜂蜜は少な目にしてちょうだい。太り気味なのよ、最近」
「わかりました」
 暖炉の熱を利用した給湯器を使っての、慣れた手つきで紅茶を淹れる後ろ姿を見ながら、懐かしそうに夫人は言葉を紡いだ。
「あんたの母さんも、機転が利く人だった。いいとこのお嬢さんだったのに、全然気取ったとこなんてなくて。姿はもちろん、中身までそっくりになって」
「そんなに、似てますか?」
 香気立ち昇るカップを置きながら差し向かいに腰掛け、フレイアは照れくさそうな瞳で問いを返した。
「生き写し。一緒にいると、昔に戻ったみたいよ。若い頃はもてたんだから、これでも」
「ええ、母から聞いてます」
「もっともね、マーニはわたしの何倍も言い寄られてたわ」
「そうなんですか? 母は、何十倍もって言ってましたけど」
 悪戯っぽい微笑は、だが、瞬時に掻き消えた。紅茶に少し、牛乳を落とそうと立ち上がった視線の先、ぐったりと横たわった仔猫の口元は、吐かれたミルクで白く汚れていた。
「チェル……」
 そっと触れたフレイアの指よりも、ずっと温かいくせにその身体はもう、動こうとはしなかった。
「死んだのかい?」
「……みたいです。昨日、捨てられてたのを連れて帰ったんですけど」
「黒い猫は不吉がられるから」
「同じですね、わたしと」
 そう言ったきり、固く唇を結んだフレイアだったが突然、両手で口を押さえた。身体を二つに折り、それでも足らずに両膝をついた。
 薄い掌を弾きそうなほど激しい咳に、先の演技とは明らかな差異を見て取った夫人は、椅子を蹴り退けて駆け寄った。
「平気、です」
「馬鹿言うんじゃないの! 血まで吐いてるのに」
「ごめ……なさい、汚して。嬉しくて、脱ぐの、忘れて」
 血塗れたコートの袖口を辛そうに見やりながら、ようやくフレイアは立ち上がった。
「座ってなきゃだめよ」
「だいじょうぶですから、本当に。すぐに、死ぬわけじゃないんです」
「すぐにって……まさか」
 顔を背けたフレイアは、左の頬だけでひっそりと笑った。
「次の冬は、越せません」
「すぐ支度なさい。医者に診てもらわないと」
「無駄です」
「そんなことわからないでしょ! どんな未来でも、変えようと思ったら変わるのよ!」
 握られた手首を、やんわりと振りほどきフレイアは、小さく首を左右させた。
「いいんです……変わらなくて」
「なに、言ってるの? 死ぬってのに……!」
「チェルは、この子は凍え死ぬ運命だったんです。ほんの少しだけど、未来は変わりました」
「少しだって、変わったことに違いないじゃないの! ……家においで。もう、誰になにを言われたってかまやしない。わたしがずっと看病するから。お願いだから、そうしておくれ」
「嫌っ!!」
 温かな申し出をフレイアは、信じられないほどの語気で跳ねつけた。
 驚きのあまり、言葉も継げない夫人の眼前には、感情の昂ぶりに打ち震える全身。ようやくに、その動きを止めてなお、紫の瞳は遠くを見続けていた。
「だって、もう少し我慢したら、来てくれるの。わたしのこと……愛してくれる人。どうしても、どうしても会いたい。そのためだけに、生きてきた。……ごめんなさい、おばさま」
「そう、好きな人が……できたのかい。よかったわね」
 フレイアの気持ちを瞬時に汲み取り、懸命に涙をこらえた声が絞り出された。
「ありがとうございます。わたし、鏡の前で笑う練習してるんですよ。どんなに苦しいときでも、笑えるように。ほら」
 鮮やかさと美しさ、それに温かさとが完璧な割合で融和した微笑みが、そこには生まれた。
「綺麗だよ、ほんとに。こんなに綺麗なのに、こんなに……ごめんよ」
「謝らないで下さい。おばさまのことは、いまでも好きです。いつも気にかけてくれてたこと、知ってます。それに、あの人に会えたらわたし、町の人みんなを好きになれると思う」
 血に汚された手をスカートで拭い、フレイアはチェルの抜け殻を抱き上げた。
「死ぬのは怖いです、とっても。死にたくなんかない。でも、このまま生きたって、このままひとり――」
 小さく咳き込んだフレイアは背を向け、消え入りそうな声で続けた。
「わたしにだって一度くらい、幸せなことがあってもいいでしょ……」
 涙をどうすることもできず、それでも口を開いた夫人であったが、音にさえならなかった。
「また、来るからね」
 ようやく、それだけは言うことができたが、
「来ないで下さい。わたしだったら、大丈夫ですから。寂しいときなら、誰と会っても嬉しいですよね。それがもし好きな人だったら、どんなに幸せだろうって、思うんです。だから、ひとりでいさせてください」
 精一杯の悲しい強がり。これ以上、自分と関わることは、不利益でしかないとわかっていたから。
「かわりに、わたしがいなくなった後のこと、お願いできますか? あの人は、無愛想で不器用で、だけど本当に優しいんです、本当に」
「わかった、わかったよ。約束する。じゃあ、帰るからね。……さよなら、フレイアちゃん」
「懐かしい、呼ばれ方。さようなら、エレナおばさま」
 ゆっくりとドアが軋み、冷えた空気がわずかに入り込んだ。振り返りたい気持ちを抑えフレイアは、冷たさと固さを増して行く仔猫に頬を寄せた。
「ごめんね、チェル。凍えるのも、温かい部屋で死ぬのも一緒だよね。苦しみを、長引かせただけだったよね。だけどね、それでもね、わたし……あの人の腕の中で死にたい」


 微熱の続く身体を湖畔に横たえてフレイアは、気だるそうに水に手をつけた。ほのかな温もりと湧き立つ草の匂いが、夏の訪れを告げていた。
「綺麗……」
 寝返りを一つうち、真っ青な空を眩しそうに見た。そして、その空をつかもうとでもするように、手を伸ばした。
「でも、いらない」
 向くままに心をこぼし、ふらつく足で立ち上がる。黙っていると、じっとしていると心臓が跳ね出してしまいそうな錯覚に捕われるほど、鼓動は速く、かつ激しい。
 待ち続けたそのときが、伸ばした指のわずか先にまで迫っていることを、フレイアは知っている。湧き上がる喜びのなかに、だが、一抹とはいえ不安もあった。
 なにか足りない、そんな気がして仕方がないのだ。存在さえしないと言われる心を、どうやったら開くことができるのか、その確信が持てない。
「どうしたらいいの? 母さん」
 生命を茂らせる落葉樹の根元、母親の遺品が眠るその場所に、切なげな声をフレイアは落とした。
 このときほど、母親に生きていて欲しいと思ったことはなかった。初めての恋。戸惑わないほうがどうかしている。
「お化粧、したほうがよかったかな」
 小さく穏やかな湖面に身を乗り出し、鏡がわりに顔を映してみた。
 類まれな容姿でありながら、フレイア本人は自覚が薄い。自分に自信がない、というべきだろう。もっとも、化物扱いまでされる境遇で、自信を持てと言うほうが、どだい無理な話ではあるが。
 前髪をかき揚げ、不安そうな微笑を作りかけた映像が、風もないのに揺れた。首をもたげると、必然視界は前方に広がる。
「あっ……!」
 水面を震わしたのは、掌ほどもあろうかという一枚の白い羽。そしてもう一枚がいま、回転しながら着水した。
 波紋が走り寄る。それを迎える、たった二雫の涙が合わさり落ちて作った、小さな波紋。
 二つの波は、決して打ち消し合うのではなく、溶けるように交わって、消えた。
 顔に水を散らしフレイアは、立ち上がりながら振り返った。逸る心とは正反対に、とてもゆっくりと。
 はたから見れば少し堅い、けれども、あらん限りの思いがこめられた笑みが、十数メートル先に降り立った、背に翼持つ男に注がれる。
 黒い眉根を微妙に寄せはしたが、男は構わずに腰の剣に手をかけた。
 男の元へと、ゆっくり歩みを寄せつつフレイアは、痛み震える呼吸器に少しだけ息を入れた。溢れ出しそうな感情は心臓だけに留まらず、病巣をも刺激していた。
「やっと……会えたね」
 飲み込み切れなかった血が、口の端から零れる。色をなくしそうなほど白い頬。深紅に血塗れた唇。それでも、笑顔は崩れない。
 無言のままで男は抜剣し、二度ほど空振った。心の迷いまで断ち切ろうとするかのように鋭く。
 戯曲にでも出て来そうな、美しく装飾された台詞をフレイアは用意していた。けれど、そんな余計なものは目と目が合ったとき、すべてどこかに消え去った。
「ずっと、待ってたんだよ。ずっと」
 口をついて出たのは、ありきたりの言葉。ありのままのフレイア。
 翼の男は、深い深い色の瞳を瞬間閉じ、かっと見開いた。心の無い……否、心を隠した双眸がフレイアを睨みつけたかと思うと、男は全力で駆け出した。瞬く間に間合いが詰まる。
 突き出された刃は首を刈ろうとしているのか、心臓を貫こうとしているのか。
 迫り来る死。フレイアの足が止まる。だがそれは、恐怖ゆえのことではなかった。彼女は掌を上に向けた両腕を、そっと差し出したのだから。
 腕は左右に開く。愛しい人を抱き止めるために。そう、抱き締めて二度と、離さないために……。