『Alone Again ―the episode of FREA―』 悲しげな溜息が、地下の空気を真白に染めた。小麦の一握りさえない、名ばかりとなった貯蔵庫の。 季節は冬。様々な糧を恵んでくれる野山も、眠りの時期に入ってしまった。必然、食料を買い出しに、町へと赴く回数も増える。それゆえにフレイアは、この季節だけは好きになれなかった。 元々、食は細い。蜂蜜を入れた紅茶とビスケットの五枚もあれば、充分に一日は過ごせるのだが。 「今日ぐらい食べなくても……ううん、あの人が来てくれるまで、元気でいないと」 憂いに浸された、紫水晶を思わせる瞳に喜びの色素が混じった。一見しただけで冷たいとわかる白い頬にも、紅が差す。 かじかむ指を折りながら、階段を登る。小さな咳が、いくつもこぼれた。 「あと、七ヶ月。もう、すぐ」 半年を越える月日さえ、フレイアにとっては間近に思えた。その何倍もの間、ひたすらに待っていたのだから。彼女に喜びを運んでくれる、たったひとりの男性を。 顔も知っている。名前も知っている。心から必要としている。会ったことはなくても、いまはまだ、一方的でも。 暖炉に手をかざして咳が治まるのを待ち、急ぎ着替えに取りかかった。町までは徒歩で、ゆうに四時間はかかる。 羊の腸のように細く折れ曲がり、一つ間違えれば、命さえ落としかねない場所も数カ所は点在する険しい山道。慣れているとはいえ、夜は避けたい。 「買い替えないとだめかしら」 姿見に映った自分を見て、フレイアは首をかしげた。セーター、マフラー、手袋等は自身が編んだもので、非の打ちどころがない出来である。問題は、その上に羽織るコートにあった。 傷みもひどく、袖も丈も随分と短い。なにせ、いくつのときに買ってもらったのか、忘れてしまうほど古い物なのだから。衣服のすべてを自作しているフレイアではあったが、固い動物の毛皮を針で通す力はなかった。 「……いらないわね。もう少しだけ、我慢すればいいんだし」 来年の今頃はもう、着る服の心配はない。すべてが必要でなくなる世界へと、召されるのだから。 炎を映し、煌き流れる金色の髪にブラシを通しながらフレイアはまた、大きな溜息をついた。しかたのないこと、と自分に言い聞かせるように。 フレイアを見止めるや、商店街の雑踏は消え失せた。母親は我が子を、さらうように抱きかかえて走り去り、次々に扉を閉ざした店先には、閉店≠フ木札が下がった。 明らかに人々は、フレイアを恐れていた。美の女神と見紛う容姿を誇る彼女を、まるで死神か悪霊といった不吉の化身、いやそれ以上に。 冬の風に乗って吹きつける露骨な嫌悪を、フレイアは静かに受け止めた。悲しくないわけがない。フレイアは、どこにでもいる普通の女性なのだから。人一倍傷つきやすい心が彼女の内にあることを、誰もわかろうとしてくれないだけで。 フレイアが、自分を特殊な存在だと知ったのは、八つにも満たぬ歳の頃だった。周囲の反応が認識を迫った、というほうが的確であったが。 明日で神父さん、いなくなっちゃうね 幼い日の彼女はただ、見たままを口にしたに過ぎなかった。それが、友達の誰にも見ることができない不幸な未来、死という現象だなんて思いもせずに。 小さな町だけに、流言の広まりは早かった。葬儀、埋葬という儀式すら差し置かれ、死を呼び込んだ元凶≠フ排除は行動に移された。 しかし、その危機を直前で凌いだのは、フレイアの母親、マーニの冷静な対処であった。 家を取り巻く松明の群れに毅然と身を進め、暴徒と化し始めていた男どもを、ものの数分で追い返してみせたのだ。盲目的に母親を信頼しきっている幼女にとってさえそれは、信じられない光景であった。 噂に勝てるのは、やっぱり噂だけなのよ。ごめんね、フレイア。こうするしかなかったの 涙ながらの問いに、割れたガラスに伸ばされようとしていた手は方向を変え、震える小さな身体を優しく抱き寄せた。 窮地を脱したにもかかわらず、フレイアを見つめるマーニの表情から陰が拭えなかったのは、自らが広言した偽りの言葉に、愛する娘を恐怖の対象に引き上げてしまう側面があることを、理解していたためであった。 それでも、フレイアは――謝られた理由がつかめなかったにせよ――満面の笑みで母の胸にしがみついた。フレイアが不安に思っていたのは、母親までが他の人と同じように、自分のことを嫌いになってしまうのではないかという、ただ一点にあったのだから。 ほどなく住居を山間に移し、母娘二人だけの生活が静かに流れて行った。寂しくなかったといえば嘘になるが、穏やかな日々が続いた。あまりに早く、母を亡くすまでは。 嘆き悲しみフレイアは、自分を責めた。尋常でなく取り乱した。 母の死の遠因が、自分にあったこと。加えて、どうして母の死が見えてくれなかったのか。知ってさえいれば、運命を変えることだってできたはずなのに、と。 そんな、悲嘆と自責の枷に縛られるフレイアに、食事を取るほどには元気を回復させてくれたのは、マーニが親友に宛てた手紙であった。 親友の女性が見せてくれた何十通もの手紙のどれにも、娘への愛に満ちた言葉ばかりが綴ってあったのだから。 立ち直りのきっかけは得たフレイアであったが、これからの生活をどうすべきかという指針は、定めようがなかった。 奥まった場所に居を構えてはいても、生きている限り人との接触は断絶できるものではない。加えて、蔑視よりも孤独のほうが、当時のフレイアには辛かったのだ。 母への思慕を紛らわすように、三日と開けず町に出向きはしたものの、多感な時期をあからさまな差別に曝され、傷つかない少女がどこにいようか。 耐えられない孤独。慣れるはずのない冷ややかな視線。せめぎ合う二つの苦しみに疲れ、半ば自暴自棄に陥ったフレイアが叩いた扉は、街門の外に位置する赤い屋根の建物、娼館であった。 なにが行われる場所かは、当然知っていた。それが、彼女の倫理観からして、どれだけ汚らわしいことかも。 それを理解してなお、 ここなら、必要としてくれるかも…… そんな思いだけで震える心を縛りつけ、太りに太った女主人の前に立ち、そして打ちのめされた。 どれだけ器量がよくても、化物を抱きたい男なんていやしないんだよ! 化物……化物…… 呟きながら泣きながら、フレイアは荷物をまとめた。町を出るということは、盗賊はおろか、人外のものまでが跋扈する世界へ足を踏み入れることを意味した。屈強な護衛なしには、一時の命さえ保てない場所に。 それでも、ここにはいられない。できるなら、遠い遠い場所で人並に暮らしたい。誰かを好きになって、誰かから愛されて、ささやかな温もりに包まれてみたい。 夜明けと共に出て行く決意は、揺るがないはずであった。 泣き腫らしたフレイアの瞳を、いつのまにか瞼が覆った。そしてそのまま、夢という形で未来を見た。自分が死んでいく、その様を。 胸の病を表す、激しい吐血は髪を濡らし染め、気管に逆流した血液が呼吸を奪う。しかもそれは、遠い日の話ではなく、ここ数年の内に起こる現実。 けれども、目を覚ますなりフレイアは声を上げて笑った。母親を亡くして以来、封じられていた感情を一度に取り戻すかのように。 フレイアは知ったのだから。死んでいく自分を、深い淵から呼び戻しそうなほど抱き締めてくれる人がいることを。自分のために、狂わんばかりに泣いてくれる人がいることを。美しい翼を失うことさえ、いとわない人がいるということを……。 塑像のように立ち尽くしていたフレイアの手が、ひどく乱暴に引かれた。 「あ、どうも」 「早く来なさい!」 体形の崩れが目立ち始めた中年の女性は、多分に怒りを含んだ声と態度で、よろめくフレイアを突き当たりにある店へと連れ込んだ。焼き立てのパンから漂う香ばしい匂いが、嗅覚をくすぐる。 「今日はなにがいるの? さっさとお言い」 「ビスケットと紅茶、それに蜂蜜。あと、春物の生地が少しあったら嬉しいです」 「わかったわ。明日届けるから」 「自分で持って帰ります」 「いいこと、あんたが姿を見せる度に、こっちはパニックなわけ。保存が利く食べ物をたくさん運んであげるかわりに、できるだけ町に下りて来ないでもらいたいの」 激しさを隠さない口調に、フレイアはうつむきがちの視線をさらに下げて謝った。すみません、と。 「それじゃあ、失礼します」 「これ、残り物だけど」 大きな手提げ袋が、背中に押しつけられた。これだけの売れ残りが出ては、商売が成り立たないであろう、大量のパンが入れられた。 「日持ちはするはずよ。牛乳も入ってるから、瓶を割らないようにね」 早口の言葉を壁に向かって投げ、行列ができるほど人気のパン屋を切り盛りする彼女は、店の奥へと姿を消した。 ありがとうございます、という言葉と気持ちとが届いたかどうか、フレイアに確かめる術はなかった。 路地裏を縫うように家路を急いでいると、濁った空から雪が乱れ舞いだした。 「寒いと思った」 こぼれた独り言とは裏腹に、フレイアの肌は冷たさを感じていなかった。温められた心は、外気温に左右されることはない。 かすかに唇の端を上げたフレイアが、さらに足を速めようとしたそのとき、弱々しい響きが耳に揺れ届いた。 そのくぐもった鳴き声は、側溝をふさぐように置いてあった木箱から聞こえた。蓋を開けると中には、目も開いていない真っ黒な仔猫が、ひとりぼっちで震えていた。 「なんてことを……」 しかし、手を差し伸べようとしたその瞬間、フレイアの脳裏に一つの映像が浮かんだ。夜の内に積もった雪が翌早朝、この小さな命を凍え殺してしまう未来が。 孤独を紛らわすために多くの人は、小動物を愛玩する手段を選ぶ。けれど、フレイアにはそれができない。いまのように突然、命の終わりを見てしまうから。 失われない命など、あるわけがない。だとしても、その一瞬がいつ訪れるのかまで知ってしまえば、すべては虚無に包まれる。 悲しい眼差しで仔猫を見つめるフレイアであったが、あることに思いが至った。この猫は、寒さという外的要因に命を奪われる。だとすれば、死の原因を取り除くなど、たやすいこと。 「運命は変わる……かしら」 優しく両手で拾い上げ、その小さな可能性を、そっと胸元に包み入れた。 「よかった、ミルクがあって」 人肌に加熱した牛乳を木綿のハンカチに含ませて口元を湿らすと、小指の爪ほどの赤い舌がさかんに動いた。 「元気になるのよ、チェル」 チェルノ≠ニいう、黒を意味する古い言葉から名前をもらったこの仔猫は、暖炉の脇、柔らかな古着を敷き詰めた竹細工のカゴという快適な寝床を提供してもらい、穏やかな眠りに落ちて行った。 フレイアはその側で、夜を明かすことにした。片時も目を離さず、小さく上下する腹部に指先を当てたり、そっと頭を撫でてみたりで、ついに夜明けを迎えた。 フレイアが見てしまった未来は、当然のごとく訪れなかった。かすかに首をもたげ、掌の上で鳴きながらミルクを舐めたチェルはまた、それが仕事とでも言うように眠りについた。 安堵とも疲労ともつかない、小さな溜息を残してフレイアは、椅子に座ったまま目を閉じた。 降る雪はまだ、止むことを知らないでいた。 |