『冬の獅子』


「馬鹿が」
 短く、だが明瞭に言葉を発した。
言いたいことは溢れるほどあったが、町の有力者とやらの認識がここまでひどいものなら、これ以上のどんな言葉も無意味だ。奴等の存在を、トロルかオーク程度にしか考えていないとは。
 ここに集まった輩には和やかであったろう、ぬるい雰囲気は消え去り、二十五もの眼が俺に集中した。
「どういう意味だね? 少し口が過ぎ――」
 非難を唱える、真正面の男を一睨みで制す。過度に着飾った中年男は引きつった笑いを浮かべ、汗だくのグラスに逃げ場を求めた。
 そもそもこの、円卓を囲むなんてスタイルからして茶番だな。平等と言えば聞こえはいいが、責任の所在を曖昧にしているだけだ。
 改めて恨むよフレイア。俺にだけ、こんなやっかいな仕事を押しつけて。
 席を立ち、意識的に歩む速度を落として出口へ向かった。重厚な扉を押し開ける前、
「せめて、警備を固める気はないか? 守兵を増やすだけなら、簡単だろう」
 首だけで振り返り、試みにそう問うてみた。
「この町には、百余名もの傭兵が常駐しておる。人口からしても他の町と比べても、なんら遜色はなかろう」
 穏やかな低音で答えたのは一際恰幅のよい、剣瘡に片目を塞がれた男だった。年齢はすでに、老境にかかって久しいといったところか。
 やはりな。ここの実権を握るのは、この男しかあるまい。たるんだ身体には見る影もないが、残された左目には、戦場を駆け巡った者だけが持つ鋭い残光がある。
「ここが襲われると言うが、若いの。そもそもの根拠はなんだね?」重たそうに頬の肉を震わせ、老人は言葉を続けた。
「戦士としての経験と勘、では不足か、古いの?」
「き、貴様、誰にものを言っていると」
「黙ってろ小物! お前じゃねえ。どうなんだよ、じいさん」
「ふん、ぬかしおるわい。噂に高い氷の獅子≠セけあって、さすがに鋭い吠えかたをするものよ。それだけの自信があるならどうだね、守兵を率いてはくれぬか? 無論、報酬は弾むが」
 場がどよめいた。やれやれ、この程度のことが重大な決断とは。
「あんたらの思う獅子とやらは、羊や豚に大人しく繋がれるのか? 邪魔したな、失礼」


 外へ出るなり強い陽光に刺され、俺の苛立ちは倍化した。まだ、四月も半ばだというのに、季節は夏をも迎えたようだ。
 たなびく白雲の薄さでは、陽射しを遮ることはかなわない。くそっ、暑いのは苦手だ。
 それにしても、我ながら短気だったな。いまでもフレイアがいてくれたら、どんな瞳をするだろうか……。
「あら、もう終わったの?」
 声をかけてきたパン屋のおかみさんに、頷きで応えた。よそ者の俺にまで、愛想よく接してくれる数少ない人だ。若い頃は細くて器量よしだった、と自分で吹聴しているが、嘘ではないように思う。
「来るんじゃなかったって、顔に書いてあるわよ」
「せっかく、骨を折ってもらったのに」
 俺があの定例会議に、一応ながら席を設けられたのは、この夫人の口利きのおかげだ。おそらくこの町で、最も深い人脈を持っているひとりだろう。
「そんなことはいいの。だけどねえ、あんたが言う、ここが狙われてるなんて話は……」
「信じられない。そうだよな」
「ここ一年ばかりは、どこの町や村も平和だって言うし。気を悪くしたらごめんよ」
 俺はただ、首を左右させた。確たる論拠なしに――いや、あるにはあるのだが、それを告げることはできない――流れ者の言葉を信用するほうがどうかしている。
「おかみさんは、この町が好きか?」
「もちろんよ。ここで生まれて育ったんだから。故郷よりいい場所なんて、そうあるもんじゃないの。若い人に言っても、わからないだろうけど」
「そうか……それでも、なにも訊かないで逃げる準備だけはしておいてくれ。本格的な夏が来る前に」
 頬に垂れた汗を拭ったのをきっかけに、軽く頭を下げてその場をあとにした。だが、なぜか小刻みな足音が俺を追ってきた。
「家のパンと産みたての卵。ちゃんと食べないとだめよ。顔色もよくないし」
「ああ……」
 優しさを手渡されても、口ごもってしまう。慣れない、こういうことには。
「それから、これ。フレイアちゃんのお墓に」
 名前を知るはずもない、とりどりの花をまとめた束が差し出された。
「ありがとう。きっと喜ぶ」
「いまさら、こんなことして……」
「いいんだ、もう。フレイアは、好きだと言ってたから。町の人、みんな」
「そうだったわね……。とにかく、食事は取りなさい。生きている人には、やることがいっぱいあるの。例えば――」
「花、本当にありがとう。じゃあ」
 慌てて逃げ出したのは、この後の展開が予測できたからだ。
 早くお嫁さんをもらうこと
 こうくるに決まっている。この前も店に連れこまれ、見合い用の肖像画を何十枚見せられたことか。
 まあ、いい人には違いない。おかげか失敗も、さほど気にならなくなった。
 心とは面白いものだ。つくづく、思う。


 市街から早足で、およそ三時間ほどの山腹に俺の住居はある。不便といえば不便だが、ここを離れる気はない。
 俺は荷物を抱えたまま、さらに数分山道を登り、小さな湖に行き着いた。雨の日以外、一日の大半を過ごす場所だ。
「もって、あと三ヶ月か」
 澄んだ水に手をつけ、呟いた。
 奴等の侵攻を防いでいる結界は、もう溶ける寸前だ。この水が冷たさをなくす頃、結界も消える。
 さほどの規模でもないのに、この町は活気に満ちている。人々の生活を彩るのは、溢れる笑顔、耳を覆いたくなるほどの喧騒、それに少しばかりの涙。すべてが、人間らしさの発露だ。
 だが、同時にそれらは奴等の思う秩序≠ゥら、大きく外れる行為でもある。かの一族は粛清という名の虐殺に飽き、なりを潜めているわけではない。次に浄化すべき場所がここであり、その予定は絶対だからだ。
 いくら結界に阻まれようとも、奴等はこの町だけを狙っている。そんな融通のなさが現在、広い範囲で漂っている平和の元とは、皮肉なことだがな。
 ともかく、俺個人の力は限界まできてしまっている。それがわかっているからこその、今日の行動だったが。
「考えてみれば、よかったのかもしれんな」
 仮に、千の単位に守兵を増員したとしても、人間が対抗できるのはせいぜい、下級三隊まで。いたずらに死人を増やすより、降伏するが賢明だろう。笑うことも許されない、厳格な規律に従えば命まで取られることはない。
 人としての尊厳を守るというなら話は別だろうが、町の代表どもを見る限り、そんなものがあるようには……。
 やめよう。ひとりで悩んで、事態が好転するわけでもない。まだ、時間もある。それまで俺は、できる限りの事をするだけだ。
 明日はもっと、いいことあるよ
 フレイアの口癖も、そうだったしな。
 花束を抱え直し、湖の対岸へ向かった。わざわざ遠くに墓石を置いたのは、あちら側一面は春になると、レンゲ草に埋め尽くされるからだ。そう、丁度いまのように。
 しかし、紅紫の絨毯に足を踏み入れる直前、妙な気配を感じた。荷物を置き、瞼を閉じる。
 殺気とは違う、まったく。甘くそよぐ風の感じ。女か子供のどちらか、あるいは両方か。
 それでも神経を研ぎ澄まし、周囲に視線を這わせていると、耳に届いた、規則正しい呼吸音。埋もれるように眠っていたのは、やはり少女だ。
 仰向けに四肢をぴんと開き伸ばす、うら若い女性にしては豪快な寝姿であるが――いや、むしろ無垢ゆえの無防備さと見るべきか。
 陽光に映える鳶色の髪は腰近くまでを隠し、鮮やかながら不思議と野花に調和する淡色のワンピースが、とても似合いだ。
 年の頃なら十五、六。どこから見ても可愛らしい少女ではあるが、一応は侵入者だからな。無視というわけにもいくまい。
 さて、なんと声をかけるべきか。
 数歩の距離を残し、かすかな惑いが歩みを止めた。しかし、それも束の間。これほど安らかな寝顔を壊せるほど、無粋にはなれない。
「やれやれ」小さくこぼしながら、真っ青な空を仰いだ。誰が見ているわけでもないが、連られて微笑んだ自分を気恥ずかしく思った。
「来ないでっ!」
 強い語気にも隠しきれない、怯えの響きが浮き届いた。反射的に下げた視線に、上半身を起こす少女の、空とまったく同じ瞳が睨み応えた。
「怖がらなくてもいい。ここの所有者だ」
 表情を消し、堅く言った。
「あっ、そうなんだ」
 対称的に、少女の顔には笑みが生まれた。が、それは単なる笑顔ではなかった。見た瞬間、背中が粟立った。
 それは……そう、戦慄に似る。
 戦士として死地をくぐるに連れ、ただならぬ感覚をいくつかは知ったつもりだ。少女から漂ったのは、そのすべてに酷似した、ややもすれば彼岸を傍らに感じさせる、あの凍てつく雰囲気だった。
「綺麗ね、ここ。すっごく几帳面に、手入れしてあるし」
「野に置けレンゲ草とは言うが、性分でね」
 剣にかかりそうになった手を上方修正、頬に置いた。唇の両端を上げて作られる微笑みにはもう、柔らかさしかなかったから。
 もちろん、油断はできない。敵意、あるいは殺意。そう感じてしまった以上、気のせいですませられる類とは違う。戦場で信じていいのは、己が直感だけだ。
 送りこまれた刺客。その判断は覆らない。問題なのは、誰の息がかかった者かという一点のみ。最も俺を消したがっているのは、ふん、考えるまでもない。だが、そんなやわな結界を張った覚えもなければ、なにより奴等の中に、笑える者などいようはずがない。
 だとすれば可能性が高いのは、自由戦士の立場を固持する俺を、煙たく思っている傭兵ギルドのお偉いさん、というところか。あどけなさの残る少女を送りこんで隙をつこうとは、人間にしておくのが惜しくさえあるな。
「ねえねえ」
 ぱんぱんと二度、声に合わせて草が叩かれた。横に座れということらしい。
「あら、照れちゃってるの?」
 腕一本半の間隔を開け、腰を下ろした。これだけあれば、どんな動きにも対応もできる。
「大人をからかうもんじゃない。名前は?」
「え、えっとね……他人に名前を尋ねるときは、自分から名乗るのが礼儀でしょ」
 名前を尋ねただけで動揺か。なるほど、場数を踏んでいるわけではなさそうだ。
「失敬。俺はダイ、ダイ=レオンシードだ」
「あたしは、アンジェリ……カ」
「いい名前だな」
「ほんと?」
「ああ」
 偽名だと感じながらも、素直にそう思えた。
「あ、ありがと。嬉しい」
 強ばっていた頬がまた、はにかんだ笑みに取ってかわられた。感情が表情に直結する、わかりやすい娘だ。
「で、アンジェリカ。どうしてこんな、町外れの場所に来た? その歳で、迷子でもなかろう」
「それは……」
 駆け引きを楽しむ趣味はない。会話で翻意を促せるほど、口も上手くはない。それでも命を奪うからには、なんらかのきっかけが欲しくなる。身を守るためとはいえ、こんな少女が相手だと、特に。
 うつむきがちに顔を背けたアンジェリカの目線は、当てどなくさまよった。それらしい、言い訳を考えているとみえる。
「あなたを……殺しに。気づいてるんでしょ、もう」
 ようやく開いた口から出たのは、時間をかけた割に素直な、素直すぎる答えだった。
「小細工は嫌いか……。だが、刺客ならそれらしく、闇討ちでも選ぶべきだったな。女だからといって誰もが、優しくなると思うな」
 言葉を終えると同時、剣を鞘走らせた。座した体勢ということもあり、大地と平行、真横に薙ぐ。
「待って!」
 小枝を思わせるほど細身のナイフが、流すでもなく、まともに斬撃を受けた。力勝負で分がどちらにあるかなど、自明のこと。
 そのまま派手に吹き飛び、背中から大地に叩きつけられる……かと思いきやアンジェリカは、片手をついたバク転でしなやかに浮き立った。撃ちこみに合わせ、自分から跳んだか、いまのは。
 待てとの叫びが、微妙に剣勢を鈍らせはしたろうが、手加減なしの攻撃だ。まさか、これほど見事に切り抜けるとはな。一連の体捌きは、予想の遥か上をいっていた。
「命乞い、のわけもないか。なんだ?」
「訊きたいことが、どうしても教えて欲しいことがあるの。だから、待ってた」
「ほう」自らの正体をさらしてまで、なにを問いただそうというのか。打ち消せない興味を覚え、長剣を鞘へ戻した。
「どうして――」
「少し早いが夕飯でもどうだ。話はそのあとで、ゆっくり聞こう」
 アンジェリカの言葉より早く、立ち上がりながらの提案を一つ。
「ご飯、あたしと?」
「ひとりで食べるのは、味気ないからな」
「……変わってるわ、あなたって」
「お互いさまだろう」
 濃い疑いを宿す双眸。眉をひそめるその状態がしばらく続き、ようやくに首は一つ上下した。同時に、小さくも形のいい手が腹部ヘ移動していた。
 本当に、わかりやすい娘だ。


 あとでまた来るから、とフレイアに口の中で詫び、花だけを供えた。なにか問いた気な表情を浮かべたアンジェリカであったが、黙って後からついてきた。
「随分、片付いてるんだね。ひとりで住んでるんでしょ?」
「いまはな。そこらで好きなように、くつろいでくれ。なにか適当に作ってくるから」
「手伝うよ」
「そうか? じゃあ、目玉焼きでも」
 俺は食材を取りに、貯蔵室に向かった。放熱を妨げていた黒鎧を脱ぎ、洗いざらしの木綿のシャツに着替えながら地下への階段を降りる。今日の暑さは、さすがに堪えたな。
 薄闇の中から一繋ぎの腸詰とチーズ、それにキャベツを探し当てて台所へ戻った。
 と、俺はアンジェリカをひとり残した自分の選択が、誤りであったことに気づかされた。
「えーい、この!」
 なんて掛け声は、卵相手には物騒だろう。
 アンジェリカの肩越しに覗いたボールには、黄味の壊れた卵が大量に生産されていた。殻も少なからず、混入しているな。
「そのへんに、しとこうか」
「ううっ、上手に割れなくて。目玉焼きだから、黄味がぐちゃぐちゃだとだめよね……ごめん」
「料理、したことないのか?」
 アンジェリカは、申し訳なさそうに頷いた。訊くだけ野暮か。戦い方は知っていても、いや、それしか知らない、教えてさえもらってないのかもな。
「いいさ、気にしなくて。卵料理は他にもあるんだ。じゃあ、そこの皿を出してくれるか。そう、それを四枚と右の大きな平皿も。うん、ありがとう。すぐにできるから、向こうで待っててくれな」
 半時間ほどで食卓に並んだメニューは、トースト、ボイルしたソーセージ、キャベツの千切りマスタード風味ドレッシング添え、それと中心にチーズを入れたオムレツ(卵×十二個)だ。
「あはは、おっきなオムレツ」
「さあ、好きなだけ食べてくれ」
「うん!」だが、元気な返事とは裏腹に、アンジェリカは動かなかった。瞬きさえも忘れて、一点を凝視している。
「珍しいか、ソーセージ?」
「え? あ、う、うん。いただきます」
 厚焼きのパンに、たどたどしくバターが塗られていく。視線が手元にないから、しょうがない手つきなのだが、
「塗りすぎだろう、それは」
 バターにパンを塗ってるようなもんだぞ、その量は。
「え? あ、う、うん。いただきます」
 聞いてないな、絶対に。
「食べないのか、肉は? 下げたほうがいいなら、そうするが」
「ううん、いいの。置いといて」
 溶け流れるバターを気にもしないで、アンジェリカはパンを口に運んだ。まん丸に開いた目は、未だソーセージに釘付けられたまま。
 心の底から、食べたいようにしか見えん。俺ひとり食べるというのも、これではさすがに気が引けてしまう。
「一つぐらい、どうだ? 宗教的な戒律とでも言うなら、勧められないが」
「宗教……じゃないんだけど、獣肉は食べたらだめって言われてるから」
「黙ってればいい」
「嘘はつけないわ」
「沈黙と嘘は違うさ。ああ、飲み物がなかったか。しかし、たくさん茹でたもんだ。これだけあれば、二、三本消えてもわからんな」
 遠回しの誘惑を残し、席を外した。俺がいては食べにくかろうと、下手に気を利かせたのはたしかだが、別の思惑も胸にはあった。
 アンジェリカを人間だと決めつけてはみたものの、どうも釈然としない。
 先程の身のこなしが年端のいかぬ少女に、到達できるレベルだろうか。剣技は天稟。一面では真実だが、それにもおのずと限度がある。どれだけ汲み入れようと、器以上には水が入らないのと同様に、磨くことなしに金剛石が輝きを放つこともない。
 加えて、先ほど放たれた殺気の凄まじさ。感情を露にできるという一点さえ留保すれば、人である可能性は限りなく低いのではないか。
 あの、自らを高潔だと思いこんでいる一族にとって規律、特に食べ物の禁忌は絶対尊守事項だ。アンジェリカが奴等に属する者であれば、それを破れるはずなど――
「んーっ!!」
 声にならない歓喜の波が、甲高くうねった。
 ふむ、好奇心が押し切ったか。とすれば、人間と見るのが相当。だがなあ……。
 胸底にわだかまった沈殿物を溶かせぬまま、グラスを洗い、水滴を振り飛ばした。
「飲み物、なにがいい?」
「なにがあるの?」
「紅茶、緑茶、湯冷まし、ぐらいか」
 氷を詰めた保冷庫を探っていると、口をもぐもぐと動かしながら、アンジェリカが歩み来た。どうやら、目当ての物があったらしい。
 水屋の一番下の段、それも随分と奥のほうから、紅く透き通る液体の入った、幅広口の円筒瓶を引っ張り出した。
「これがいいな」
 それはたしか、クランベリーの実と果汁に蜂蜜を合わせて漬けたものだと、フレイアが言っていたはず。俺の背丈では死角になって見えない、こんな場所に直してたのか。甘いものなんて滅多に口にしないから、あることさえ忘れていた。
「ああ、構わない」
 そう頷くと、アンジェリカは嬉しそうに瓶を抱きかかえ、食卓へ戻った。
「ほんとに綺麗な色。ねっ、早くちょうだい、すっごく喉乾いちゃった」
 皿の上には、ソーセージが一本だけ残っていた。山盛り食べれば、それは喉も乾く。かすかな遠慮なんだろうな、全部を平らげなかったのは。ふっ、可愛らしくはあるか。
「おかしな味がした……ら」
 一気に飲んだか。まあ、いいんだが。
 グラスを離した唇から、甘い吐息が漏れた。目尻が、不自然に下がったような気も。
「おかわり」
 差し出されたグラスに木杓子で、二杯目を注いだ……のが失敗だった。またも一息に飲み干した頬は、もう一つの紅色にまで上気したではないか。
「きゃはははははははっ!」
 一拍の間も開けず、唐突に哄笑も溢れ出した。この状況から導かれる結論は、
「酔った……」
 急ぎ指をつけ、一舐めしてみる。
「やっぱりかよ」
 それも、かなり強い。口当たりはほのかに甘いが、これを立て続けにあおっては、俺でさえ前後不覚に陥るはず。
 確認を怠った、自分の不用意さを瓶に転化、上から下まで睨みつけた。ん、底になにか白い物が見える。
 傾けた瓶底には、小さな紙が折りたたんで張りつけてあった。開くと、懐かしい丸文字の列が目に飛びこんできた。
『久しぶりです、元気にしてますか? これに気づいたということは、誰かいい人できたのかな? だって、甘いもの嫌いなはずだから。ちょっとだけ、寂しいです……なんてね。
 本当はわかっています。あなたがこれを、いつ読むのかも。だから、一つだけ言いますね。目の前の女の子を大切にして下さい。あなたの運命を変えてくれる、かけがえのない人になるでしょうから。
 では、このあたりでペンを置きます。さようなら、身体には気をつけてね。さよなら』
 震える身体を、どうすることもできなかった。
「なんだよ、フレイア。こんなとこに、こんなとこに隠れてたなんて、フレイア……」
 こぼれる前に涙を拭い、それでも歪む視界の中で再度目を通す。もう、二度と会うことのできない人からの手紙は、これほど悲しいものか……。
 しかし、感傷に浸るには大きな問題があった。目の前の女の子を大切に、以下の文章だ。
「おっかわりちょうだい!」
 ……この、見事に酔っぱらった娘をか? それは、かなり無理な相談だと思うぞ、フレイア。なにせ、俺を殺しに来たんだから。
「おっかわりちょうだい!!」
「だめだ」手紙はひとまず置き、現実に対処しよう。これ以上飲ませるのは、どう考えても危うい。瓶を引き寄せ、首を左右させた。
「いじわるぅ……」
「い、意地悪って、お前なあ」
 がらにもなく動揺しか返せなかったのは、潤んだ瞳のせいだ。命を狙う、狙われるという関係さえも差し引かせそうな、薄っすら涙に飾られた表情に抗せそうなものを、俺は欠片も持ってない。
 ああ、本格的に泣き出した。