『完壁』


 こうもむごたらしく奇妙な死体には、そうそうお目にかかれるものではない。
 バラバラ殺人。普通ならそう即断して、なんら問題ないのだが……
 現場しか知らない、いわゆる叩き上げの刑事である俺をこうも困惑させる状況――密室。
 八畳ほどの、家具らしい家具もない殺風景な部屋に、切り刻まれた顔を付けた、純白を失ったウエディングドレス姿の胴体が一つだけ。
「くそ」
 俺は理屈屋の探偵なんかじゃない。窓一つない白壁に八つ当たるのが関の山だ。だが、焦りに任せていても埒はあかない。とりあえず、害者の状況だけでも把握しておこう。普段通り行動すれば、少しは落ちつくかもしれない。
「おい、林。お前も見ておけ」
 うちの署に配属されたばかりの若い刑事は、真っ青な顔で頷いた。無理もない。
「なにが、あったんでしょう。男性がこんな格好で」
「さあな。しかし、締まらん死に様だ」
「血塗れているのは服だけで、床に血痕はまったくありませんね。切られた手足も凶器もないですし。別の場所で殺されて、運ばれてきたんでしょうか?」
「どうやってだ!」
 つい荒げた声に、林は悲しそうに目を伏せ首を左右させた。
 ここは密室なんだ、完全な密室なんだ!
 爆発しかけた衝動をなんとか抑え、煙草をくわえた。
「吸うか?」
「いえ……いや、はい。いただきます」
 嫌煙家の林も、さすがに気を紛らわしたかったようだ。
「蒸しますね」
「密室だからな」
 額の汗を拭いながら田口は、四方と天井に目をやって呟いた。そうですね、と。
「あの、川上警部補」
「なんだ?」
「ここは、完璧な密室だと思います。この死体は、殺しがあった何よりの証拠だと思います。けど――」
「続けてくれ」
 視線と言葉で先を促す。
「けど、僕たちはどうしてここにいるんです? 入り口なんてどこにも、扉も窓も……なんにもないじゃないかっ!」
 垂直に昇る紫煙を見ながら、俺は薄笑うしかなかった。
「密室、だからな」





『死欲』


――富める者が天に召されるのは、駱駝が針の穴を通るより難しい

「貧乏人のあっしらこそが、天国に行けるとおっしゃるんで!?」
 赴任後まだ、日の浅い神父の説教を受け、せむしの老人は芝居じみた驚き方をした。
「日々の糧に感謝し、精一杯に生きれば、天国の門は開かれます」
「神父さんは若い。人間がどういうものか、まだまだ知らんようで」
 曲がった身体を揺らしながら笑う老人に、神父は一瞬、蔑みと哀れみの中間に位置する表情を向けた。
「人はたしかに、罪深き子羊です。それでも、神は救いの手を差し伸べていらっしゃいます」
「そうまで言うんならどうです。今晩、あっしに付き合いやせんか? いいものを見せてあげやすよ」
「どこへです?」
「決まってるでがしょう。あっしは墓守ですぜ」

 約束の刻限に神父は小屋を訪ねた。さすがに深夜の墓地は不気味に思えたが、神に仕える身で、そんな言葉はこぼせない。
「さて、行きやしょう。その前に、銅貨を一枚握って下せえ」
「銅貨を?」
「なあに、魔除けでさあ」

 小さな灯りが照らす道を神父は付き従った。前を進む墓守は押し黙ったまま、ゆっくりと粗末な墓の間を縫い歩いた。
「なにを見せようというのです?」
 足音さえ吸いこみそうな静寂に耐えきれず、神父は彼に似合わない声量で言葉を発した。
「しっ、静かに。そこでさあ」
 ランプが、墓というよりは、ただの石を闇の中から浮かび上がらせた。
「これが……なんです?」
「正面に立ってくだせえ」
 ここまで来ておきながら拒否するわけにもいかず、神父は素直にたたずんだ。
 ほい、という掛け声に続いて、小さくも甲高い金属音が神父の足下で鳴った。
「う、うわあああーっ!!」
「これは、行き倒れた乞食の墓でさあ。骨になってもまだ、手を差し出すんで。これが貧乏人の、人間の性根。天国なんざ、遠すぎるってもんでやしょう? ほれ神父さん、早く銅貨をやらないと、地面の中に引きずりこまれますぜ。前の神父さんみたいにね」





『義務と罰』


 本当に一瞬だった。眩しさとブレーキ音を感じたかどうか、宙に跳ね上げられた俺は、アスファルトに叩きつけられていた。
 ……死ぬんだな。
 痛みが、厳然と存在する頭部の痛みが、触れることのできない遠くへ離れて行くような不思議な感覚に包まれた俺の眼下には、俺が……いた。
 気がつくと、冷たい石畳に足を投げ出し、壁にもたれていた。ここがどこだか、どうやって来たのかさえ覚えてない。最後の記憶は、仰向けに横たわる自分の全身像。
 俺は両の掌を目の前にかざし、握っては開いた。動く、問題なく。
 助かったのか?
 そうだ、間違いない! ここは、そう、病院の待ち合い室。証拠に周囲の誰も皆、顔色が悪かったり、怪我――
 俺は息を飲んだ。向けた目線の先、若い女性の顔はその右半分が吹き飛んでいたのだ。こ、この女はたしか、ビルの屋上から銃を乱射し、自らの頭を撃ち抜いて死んだ犯人。本人以外の死人こそ出なかったもののここ数日、その話題がメディアを賑わしていた。
「貴方はこちらへ」
 混乱に沈む俺を、白衣ならぬ黒衣をまとった女性が招いた。狭い通路を、美しくも不気味な女性の後について歩く。
 勇気を絞り、問いを発しようとした俺を制すよう、喪服の女は振り向きもせずに言った。貴方は死んだのです、と。
 嘘だ!
 叫びは、だが、声にならなかった。美しく磨かれた、鏡のごとき側壁は、女性の姿しか映していなかったのだ。
「残存思念が、見せかけを保っているだけ。最後に見た自分の姿をそのままにね」
「……それで?」
「貴方は、いわゆる地獄に送られます。ここの魂の中で、独りだけ」
「な、なんでだよ!? 俺は悪いことなんてしてないぞ!」
 善行を積んだなんて言えはしないが、普通に生きて来たはずだ。乱射犯より悪人なんてことが!
「そう、貴方はしなかった」
 俺は懸命に記憶を追った。しかし、罪業に思い至るわけがない。焦る俺に、美しいソプラノは唄うように告げた。
「払わなかったでしょ、NHKの受信料」





『Mise―love―le』


 洗い髪を拭いながら、わたしは冷蔵庫を探った。
「牛乳にしよ」紙パックに直接口をつけ、豪快に喉を潤す。
 行儀は悪いけど、誰が見ているわけでもない。夏休み中バイトして、ようやく勝ち取った独り暮しだもの。自由な生活を満喫、って感じかしら。多くなった独り言が、少し気にはなるけど。
「あっつい」
 パジャマのボタンをとめ、勢いよくカーテンを開けたものの、秋とは思えない湿り気に満ちた、生温かい風が吹き込んできた。たまらず窓を閉め、クーラーに助けを求める。
「え?」
 握ったリモコンに視線が落ちた。室内に流れたのは冷風でなくテレビの音声、女性の悲鳴だったから。深夜の放送らしく、古い洋画のよう。
「おかしいわね」
 再度スイッチを押すと、強烈な冷気に曝された。
「16℃!?」
 どうしてこんな、低い気温設定に……
 ふと頭をよぎったのは、昨日見た犯罪特集番組。流行りの感じさえあるストーカーが、合鍵を作って留守中の部屋に入り込む話。
「まさかね」
 自分で言うのも悲しいながら、異性にもてる外見ではない。念のため、戸締りだけは確認したけど。
 欠伸をしつつベッドに身を投げ、テレビを切ろうと手を伸ばした。その途端、
『後ろよ!』絶叫が金髪の女性から放たれた。
『後ろ、後ろだってば!』
 碧眼を見開き、彼女は叫ぶ。美しい顔を恐怖で歪めながら。
「迫真の演技」
『演技じゃないの! 後ろ向いてよ、お願い』 泣き出しそうな瞳が、わたしの両目を凝視した。
「なんなのよ、これ……?」
 会話のように続いた台詞。それにさっきから、一度も画面が変わらない。おののく美女の胸上の映像ばかり。
『早く!! ああ、間に合わない……』
 これ以上ない動きで振り返るとそこに、
「……なにもあるわけない」
 苦笑を含んだ安堵をこぼし、向き直った唇が、熱いまでに冷たい感触にふさがれた。目の前で煌く瞳は、妖しい微笑を浮かべながら赤黒く変色し、口移しになにかが流れ込んで、いや、動けない……
「好きよ、お馬鹿さん」





『Kitten』


 止まっちゃダメ……!
 心で強くそう思いながらも、ひとり夜道を急いでいた少女の足は、前に進むことを拒否した。塾帰りの少女を引き止めたのは、かすかでありながら強く生命を主張する、仔猫の鳴き声。
 長くもない後ろ髪を引かれ少女は、二歩ばかり惰性で進み、真っ白な溜息をついて身を反転させた。
「捨てられちゃったの?」
 点滅を繰り返す街灯の下にしゃがみ込み、ダンボール箱の中に優しい眼差しを落としたのだが、
「あら?」少女の口から、小さな驚きの声が漏れた。
 その仔猫が予想していた姿――いかにも野良猫然とした毛並み――から、かけ離れていたからである。
 くっきりと、アラベスク調に渦巻く縞模様は友達の家で見た、二十万円もするという猫と同じであった。
 少女は手袋を外し、震える小さな身体をそっと抱き上げた。
「あはっ! ママの持ってる毛皮のコートより、ずっとふかふかしてる」
 温かく柔らかな身体は、触っているだけで幸せな気持ちにさせてくれた。離したくない、強くそうも思った。けれど、
「ごめんね。家じゃ飼えないの。ママが動物、嫌いだから」
 諦めの言葉を力なく呟き、仔猫を箱に戻すしかなかった。
 少女は以前にも、捨て猫を拾って帰ったことがあった。その時の、ヒステリックな母親の態度を思い出すだけで、いまだに涙ぐんでしまう。とてもではないが、繰り返す気になんてなれない。
「……じゃあね。ばいばい」
 そう言って立ち上がった少女に向けて仔猫は、どうしたの? とでも尋ねるように、首をかしげてみせた。愛らしいその仕種に、少女の心は大きく揺れ動いた。
「ほんとにごめ――」
 未練を振り切って走り去ろうとした直前、精一杯に首を伸ばした仔猫の瞳が少女を見据えた。つぶらで澄んだその瞳は、無視できる範疇を一瞬で飛び越えた。
「寒いよね……家にきていいよ」
 少女はしっかりと仔猫を抱きしめた。
――少女は当然気がつかなかった。胸の猫が唇から牙を剥き出し、にやりと笑ったことに。