『LEMONed』 「高いな……」 空気を震わすか震わさないかの低い呟きは、まったくの事実であったが、小柄な少年の実感を伴ってはいなかった。 五階建ての校舎屋上。張り巡らされたフェンスから、わずかに身を乗り出し見た視界は夜に塗り潰され、固い地面までの距離を思い描くことなどできなかったからである。 少年は唾を飲み込み、言い訳程度の高さしかないフェンスから飛び離れた。そして、背負ったリュックのファスナーを、身をよじって開いた。取り出されたのは、MDウォークマンと白い封筒。 MD本体を胸ポケットへ押し込み、耳かけタイプのヘッドホンから、最大に近い音量を流し込む。足でリズムを刻みながらフェンスにもたれ、冷たいコンクリートに腰を降ろした。 曲の流れる、おおよそ八十分が過ぎ去ると同時に、少年はすべてを終わらせる決意を固めていた。十数年という、短い人生に自ら終止符を打つことを。 冷静を装ってはいても、胸のざわめきは加速度的に増していく。普段なら、陶酔へと誘ってくれる激しいギターの旋律も、さしたる効果をもたらすことはなかった。 溜まった息を大きく捨てつつ少年は、両の手でもてあそんでいた封筒から、やはり白い紙――一枚のルーズリーフを取り出した。 『ぜんぶ嫌になりました。 僕も向こうへ行きます。 ごめんなさい』 装飾の欠片もない、極めてシンプルな遺書である。三日月から落ちる、ささやかな月明かりの下でも読み間違いようがない。 かすかに震えをきたした指先が、封筒にルーズリーフを戻そうとしたそのとき、 「バーカッ!」 という強い口調が、ヘッドホンをすり抜けて鼓膜を揺らした。直接脳に届いたかと思わせるほど、クリアーに。 驚きのあまり、飛び上がるように直立した少年の手を風が撫でると、紙は風圧に変形しながら飛び去った。 「誰だ!?」 ヘッドホンをかなぐり捨て、少年は闇に向け叫んだ。同時にリュックを外し、盾のように構えもした。 「つまんねえ落書きだな、おい。もっと面白えこと書けよ」 揶揄の感想を口にしながら歩み寄る人影が、月光に薄っすらと浮かび上がった。春も半ばだと言うのに、目深にニット帽をかぶり、皮のジャケットを身にまとった若い男性。闇を無視するサングラスがまた、異彩を放つ一因になってもいた。 しかし、誰もいるはずがないこの場所に、忽然と人が現れたという事実だけで動転している少年に、男の外見を不審に思う余裕はなかった。ただ、防衛本能だけが、過剰な反応をいち早く示した。 「返せ!」 見当違いの方向にリュックを投げつけ、いまにも飛びかからんばかりの威勢で男を睨みつけたのだが、ふん、と鼻で笑うとサングラスの男は、手にしていた紙切れをこれ見よがしに引き裂いた。 「死のうなんざ二十年早えよ、坊主」 四つに分かれた紙片が、上空へと放り捨てられる。 目を見開き、拳の中に爪を突き立てた少年ではあったが、遺書の断片がフェンスの遥か上を越え、夜の空へと流れていくのを見ると、力なくうなだれた。 「なんで、邪魔するんだよ。なんで……」 「んーっ……お前さ、どうして死のうなんて思ったんだよ?」 男はタバコを咥え、ジッポのライターを口元に寄せた。その小さな炎に照らし上がった顔に――厳密にはサングラス越しの瞳に――少年は、どことなく見覚えを感じた。 「吸うか?」 「いや……う、うん」 左右させかけた首を上下動に変換し、少年は差し出されたタバコを一本抜き取った。 「なんてタバコ?」 「ラッキーストライク。息を吸うんだ。でねえと火はつかねえよ」 おそるおそる、咥えたフィルター内の空気を吸い込むと、苦くまとわりつく煙の味が口いっぱいに広がった。 「うまいか?」 明らかに否定的な答えを予測している男の問いに、少年は首を傾げて返答にかえた。気管に入るほど強く吸ってはいないので、咳き込むことはなかったが、立ち昇る煙が目と鼻にひどく染みた。 「んで、なにがあった? 嫌じゃねえなら話してみな」 二本目のタバコをくゆらせながら男は、その場に胡座をかいた。半分ほど残ったタバコを迷いながら踏み消し、少年も腰を下ろす。 「……なにもかも、嫌になったんだよ」 「なにもかも、か。ちーと広すぎる説明だな。直接の原因? みたいなんがあんだろう」 気さくな言葉づかいのおかげなのか、少年の心を囲む警戒心という壁は、その高さを失っていた。 「僕は、なにをやってもダメなんだ。勉強はできないし、身体も小さいから運動も……ケンカだって全然弱いし」 「平たく言やあ、いじめられてたってわけか。負けっぱなしで死ぬなんざ、悔しかねえかよ?」 「いじめられたから死ぬんじゃない! いなくなった……だから、だから僕は!」 興奮を伴った、要領を得ない言葉が途切れ途切れに落ちる。 「僕が思ってることを、全部形にしてくれた。歌ってくれたんだ。本当に凄い人だった。なのに、あんなに早く死ぬなんて……」 「後追いってやつか。自殺するような、弱っちいギター弾きにそんな価値があんのか?」 「自殺じゃない! あれは事故だったんだ、絶対に!」 「そう思ってんなら、お前まで死んでどうする」 一転して厳しさを帯びた言葉が、揺れる少年の心を打ち据えた。抱えた膝に、顔がうずめられる。 「なんの希望もないのに、続けなきゃいけないの?」 「ないんなら、自分で造ればいい。ギターでも弾いてみろよ、お前も。んで、死んだ奴の想いを継げ。それが男ってもんだ」 「弾けないよ、ギターなんて」 「音楽じゃなくたっていいさ。小説だって漫画だって、クリエートにこだわる必要もねえ。懸命に生きてりゃ、なんかみつかるさ」 「でも……」 「煮え切らねえ奴だな、ったく。うだうだ言う前にやってみろよ」 男の言うことは、けだし正論であった。だが、言葉だけでは、諦めという蜘蛛の巣に捕らわれた少年の翅に、新たな力を与えることは不可能でもあった。 「よし、見てろよ」 片手がタバコの空き箱を握り潰し、もう片方が顔を上げようとしない少年の頭を、軽く小突いた。 叩かれた反動のように正面を向いた少年の視界はなぜか、夜とは思えないほどの明るさに包まれていた。 「こっち向け。後ろだ」 「あ、危ないよ!」 男はフェンスの上、身体の前面を少年に向けて立っていた。よじ登ること自体はたやすいが、フェンスの幅はせいぜい5センチ。突風でも吹きつければ、たちまちバランスを崩してしまう。 「いいか、まずは自分を信じることから始めるんだ。不可能なんざ、かけらも思うんじゃねえぞ。やる前から諦める、大馬鹿野郎にだけはなるな!」 「わかったよ! わかったから、とにかく降りて!」 慌てて立ち上がった少年に男は、唇の端を上げて微笑みを作った。そしてそのまま、体重を後ろにかけた。 天を見ながら、闇に飲まれ落ちていく姿。少年は身体ごと顔を背けた。この高さから落ちては助かりようがない。そう、奇跡でも起こらない限り。 「ほら、お前も来いよ」 少年は耳を疑った。次いで目を疑った。 「な、な、なんで……?」 舌もうまく回らない。震える身体をどうすることもできない。男が空中に、平然と寝転がっていたのだから。 「信じれば人間だって、空ぐらい飛べんだよ。さあ、夜ん中へダイブだ。思い切ってやってみろ」 「で、でも……」 「大丈夫。お前が自分を信じ切れなくても、俺が信じてやる。お前は飛べる。間違いねえ」 「……飛べる」 「そうさ。飛び下りて死のうとしたら、本当に飛んじまったなんてよ、最高だと思わねえか?」 オーバーな身振りと口調に少年は、小さく吹き出した。そして、ゆっくりと金網に手をかけた。 「下を気にすんな。月を見ろ」 わずかによろめきながら少年は直立し、言われるままに首を上げた。空には、世界中のなによりも丸いであろう、完璧な満月が笑っていた。 現実ではない、かといって夢でもない。その狭間に自分がいることを少年は、おぼろげながら感じとった。 水の抵抗が限りなくゼロに近い水泳を、少年は想起した。飛ぶというより、浮かんでいるだけではあったが、心を縛りつけていた鎖から解き放たれていく気がした。 「どうだ気分は?」 おおよそ十分ばかり、思うままに遊泳を楽しんでいた少年に、穏やかな声がかかった。 「悪くはないね」 「ひねたガキだな、ったく」 呆れたような笑い声を合図に、重力を取り戻した少年の両足は、固いコンクリートに接地した。 「じゃあな」 少年を見下ろしながら男は、ゆっくりと上昇を始めた。 「ま、待ってよ! ……だ、誰なの?」 「誰だっていいだろうが」 照れたように、ぷいと横を向いた男。反動でニット帽から、ショッキングピンクに染め抜かれた後ろ髪が少しだけ、こぼれなびいた。 その鮮やかな色彩を目にした瞬間、少年の記憶は一点を目指し駆け集まった。 憧れ見続けた姿。夢にまで響いた声。それを気づけなかったなんて、笑う月に魔法をかけられていたのかもしれない。 「なんで死んだんだよ!」 「酔っぱらって、ドジっただけさ。時間がねえんだ。もう行くぜ」 「行かないで……」 大粒の涙を拭いもせず、少年は届かない手を伸ばした。 「バーカ。綺麗な姉ちゃんが泣くんならまだしも、お前が泣いたって未練のかけらも生まれやしねえよ。第一、男がビービー泣くな」 「……だって」 「お前だけじゃねえんだ。後追いだとか、馬鹿なこと考える奴はよ。バタバタ死なれてみろ。あの世で酒も飲めなくなるぜ」 冗談めかしながら上昇し、月に吸い込まれようとした存在めがけ、有らん限りの想いと声を少年は放った。 「形見!! 形見を……なにか」 ヤレヤレといった感じで、首を左右させながら急降下した男は握った拳を、少年の胸元に軽く突き入れた。 「甘えんな……あばよ」 男の姿が掻き消えると同時に、周囲は深い闇に戻った。拳から注ぎ込まれた熱い波動を、全身に広げながら見上げた月は、ささやかながら美しく輝いていた。 ――数日後に流れた短いニュース。 『……さんの死因を警察は、自殺ではなく事故死だと発表しました。懸念されていた、いわゆる後追い自殺も、現在までのところ一件も報告されておらず……』 end(あとがきあります) |